潜水日記

思考の記録です。

携帯電話

 思い出話をしよう。

 初めて買ってもらった携帯電話は、本体のショッキングピンクが強烈に効いている、音楽を聴くのに特化したモデルだった。CDをパソコンに取り込んで、パソコンと携帯電話をケーブルでつないで同期させて音楽を入れた。その頃の私は、まだ自分のパソコンなんて持っておらず、親に頼んで音楽を入れてもらった。秘することなど無いし、隠せば隠すほど人間というのは好奇心を掻き立てられる生き物で、だから基本的には「明け透けでやっていこう」というのが私のスタイルで、音楽の嗜好を知られることもまったく構わなかったが、何より親に断らないと新しい音楽を取り込めないのが腹立たしく、私は携帯電話に入った数少ない曲を繰り返し聴くようになった。

 私が通う中学は、当時携帯電話の持ち込みを禁止していた。だから登校時、曲がれば中学の校門というぎりぎりところまでイヤフォンで音楽を聴き、角を曲がりながらスクールバッグをあけて、中に入っているジャージの更に奥に携帯電話を隠した。

 音楽を聴きながら歩いたケヤキ並木のあの緑色をおぼえている。家々が立ち並ぶ町の深い深いところにその並木通りはあって、大きなケヤキが歩道の両脇にずっと並んでいた。上を見上げれば深緑色の葉っぱが天を覆っていて、その隙間から零れる空の青が本当に綺麗だった。朝は木漏れ日が差し込んで歩道がきらきらと明滅した。その道を私は平日は毎朝歩いた。

 ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ワールド ワールド ワールド』というアルバムは、みどり色をしている。それはケヤキの深緑と空の青さとこのアルバム自体が持つ青色が混ざった色だ。

 あの頃の私の世界は、今よりずっとずっと狭く限られていた。気軽に取り込めない音楽、通信制限、保護フィルター。この足か、あるいは自転車が、私の物理的世界の限界だった。携帯があったところでそれは物理的な制限の前には無力だった。そして私はすぐそこにいる同級生とすらまともに会話することができなかった。それがすべてだった。

 世界は『ワールド ワールド ワールド』というアルバムと直に接続していて、私はこのアルバムを聴きながらガラスの壁越しに届かない世界を見ていたのかもしれないね。そして今、私は改めて『ワールド ワールド ワールド』を聴きながら、このアルバムを介してあの頃の私の世界をと接続しているのかもしれない。そうして、ショッキングピングの携帯だったり、白ソックスだったり黒の学生鞄だったりの手触りを取り出している。

 ショッキングピンク、二代目はプールの色がよく似合う爽やかな青色と白のスライド式の携帯、三代目は柔らかなピンクの二つ折り携帯。四代目はもうスマートフォン。私は今まで持ち歩いていた端末そのどれもを思い出すことができるけれど、ここ5,6年で使ってきた誰しもが持っている端末は圧倒的に没個性だ。個性が無くなればなくなるほど世界は広くなり薄く浅くなる?どうだろうね。今自分の手元にあるiPhoneの人工的な背面ガラスの白色を撫でながら、私はこの手触りを思い出す日が来るのだろうかと考える。未来のことはわからないから、そう思っただけで結果は予測しないでおく。愛着が持てているのだろうか、わからないな。

 私はあの頃のケヤキの緑色が綺麗だったなってことが強く印象に残っていて、そう思える体験を増やすことがこれからできるのだろうか、と少し落ち込む。思い出は目的ではなく結果でしかないから、落ち込む必要なんてないのだけれど。

 iPhoneを持ったところで、私の世界は広がったのかな。