潜水日記

思考の記録です。ブログの名前を変えました。

入院

 病む夢を見た。

 毒々しいピンクや紫を基調とした内装の病院の中に私はいて、待合室のベンチに座っている。茶色でふわふわと柔らかい髪の白衣の医者がクリップボードを持って私の傍らに立っている。その医者は、「申し訳ありませんが、検査の結果からあなたには即日入院してもらいます」と言い、場面が診察室に移った。

 どうやら脳の病気らしく、血管がボロボロなのか血液の成分の数値がおかしいのか腫瘍があるのか、その影響でアルツハイマーに類似する症状も併発するでしょうと言われ、私には実感がまるでない。

 MRIもとりましょうか、ということになり、再び待合室に出向くと、幼馴染の男が会計待ちをしていた。私はそいつに「私ってやばいらしいよ~~~」とけらけら笑いながら伝えると、男は「マジかよ」と頭を抱え絶句している。当の本人より驚いちゃう?と私は居心地が悪くなったのでその場を後にする。母には泣かれる。人に泣かれるのは嫌い、それが自分に関することだともっと嫌いなので「勘弁してほしい」と途方に暮れる。

 MRI室では学校の先生がいて「大変なことになりましたね」と言ってくる。そうですねー大変なことになりましたね。でも大丈夫ですよ、入院生活のこともたくさん書くつもりなので、ほら、ノートこんなに持ってきていますし。私はキャンパスノート5冊セットを3束ほど掲げ、ね、たくさん書けますでしょ?と先生に笑いかける。そこで夢が終わった。じっとりと体が怠くて不快だった。

掏摸

乗り換えのために歩いていると、私と人との間を抜けていく影があって、次の瞬間には一歩前に行かれた。やや強引とも思える抜き方をされて驚いたけれど、次の瞬間どうでも良くなった。その男性が背負っている吉田カバンが目に止まった。私は鞄が好きなのだ。

リュックの前ポケット。キャメル・シガー・メンソール・ライト・ボックス、だと思う(何故それがわかるのかというと、空箱が私の家にあるからだ。私は煙草の空き箱を集め始めた)。2つ、ジャストサイズで収まっている、見事に。

唐突にその均衡を壊してみたくなった。

2つあるなら、そのうちの1つを奪ってみたい。

掏るか?

私より歩幅が大きく、足を前に運ぶスピードも早いその相手に追いつくのは至難の技だろう。何より人目につきすぎる。通勤ラッシュ。同じ方向に向かって歩く屍の群れ(私含む)。気づかれる可能性はないとは言い切れなかった。いくら他の人が何も見ていなかったとしても、本当かどうか私には知る由もない。

 

諦めた。手先が器用だったらな、と思った。

写真整理

 写真を整理している。

 一番古いフォルダが2015年。まだまだ歴が浅い。最近、暇を見つけては、というよりもちょっとした時間に過去の写真を削除している。心が振られなかった場合は潔く消す、それがルールだ。

 消すか、消さないか判断しなければならないので、自動的に過去の写真の鑑賞会みたいなことになる。これが、面白い。撮ったときのことを鮮明に思い出せるのが不思議でついつい見入ってしまう。大したことがない写真だけれど、撮った本人の記憶と結びつく個人的な写真たち。なんだか発酵していく感じ。年月を経て熟成され、撮った直後の状態から変容していく。

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2016年、多分海岸線を歩いていた時

 電車に乗るのが惜しくて、疲れるまでただひたすら海岸線を歩いた記憶。徐々に陽が沈んでいって、辺りは暗くなり、車のヘッドライトが眩しく思えた。

 

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2017年、都会の真ん中でひっそりと存在する植物園にて

 とても暑かった記憶がある。楽しかったことも覚えている。

 

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2018年、白波の飛沫がとにかく面白かった

 潮の香りがしない海だった。

 

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2019年、買ったばかりのサンダルで砂を踏みしめた

 生きないと写真は撮れないし、シャッターボタンを押さないと撮れないし、逆算して撮ることもできないし、写真は良いところがたくさんあるもんだなと思う。息するみたいに写真を撮りたい。

携帯電話

 思い出話をしよう。

 初めて買ってもらった携帯電話は、本体のショッキングピンクが強烈に効いている、音楽を聴くのに特化したモデルだった。CDをパソコンに取り込んで、パソコンと携帯電話をケーブルでつないで同期させて音楽を入れた。その頃の私は、まだ自分のパソコンなんて持っておらず、親に頼んで音楽を入れてもらった。秘することなど無いし、隠せば隠すほど人間というのは好奇心を掻き立てられる生き物で、だから基本的には「明け透けでやっていこう」というのが私のスタイルで、音楽の嗜好を知られることもまったく構わなかったが、何より親に断らないと新しい音楽を取り込めないのが腹立たしく、私は携帯電話に入った数少ない曲を繰り返し聴くようになった。

 私が通う中学は、当時携帯電話の持ち込みを禁止していた。だから登校時、曲がれば中学の校門というぎりぎりところまでイヤフォンで音楽を聴き、角を曲がりながらスクールバッグをあけて、中に入っているジャージの更に奥に携帯電話を隠した。

 音楽を聴きながら歩いたケヤキ並木のあの緑色をおぼえている。家々が立ち並ぶ町の深い深いところにその並木通りはあって、大きなケヤキが歩道の両脇にずっと並んでいた。上を見上げれば深緑色の葉っぱが天を覆っていて、その隙間から零れる空の青が本当に綺麗だった。朝は木漏れ日が差し込んで歩道がきらきらと明滅した。その道を私は平日は毎朝歩いた。

 ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『ワールド ワールド ワールド』というアルバムは、みどり色をしている。それはケヤキの深緑と空の青さとこのアルバム自体が持つ青色が混ざった色だ。

 あの頃の私の世界は、今よりずっとずっと狭く限られていた。気軽に取り込めない音楽、通信制限、保護フィルター。この足か、あるいは自転車が、私の物理的世界の限界だった。携帯があったところでそれは物理的な制限の前には無力だった。そして私はすぐそこにいる同級生とすらまともに会話することができなかった。それがすべてだった。

 世界は『ワールド ワールド ワールド』というアルバムと直に接続していて、私はこのアルバムを聴きながらガラスの壁越しに届かない世界を見ていたのかもしれないね。そして今、私は改めて『ワールド ワールド ワールド』を聴きながら、このアルバムを介してあの頃の私の世界をと接続しているのかもしれない。そうして、ショッキングピングの携帯だったり、白ソックスだったり黒の学生鞄だったりの手触りを取り出している。

 ショッキングピンク、二代目はプールの色がよく似合う爽やかな青色と白のスライド式の携帯、三代目は柔らかなピンクの二つ折り携帯。四代目はもうスマートフォン。私は今まで持ち歩いていた端末そのどれもを思い出すことができるけれど、ここ5,6年で使ってきた誰しもが持っている端末は圧倒的に没個性だ。個性が無くなればなくなるほど世界は広くなり薄く浅くなる?どうだろうね。今自分の手元にあるiPhoneの人工的な背面ガラスの白色を撫でながら、私はこの手触りを思い出す日が来るのだろうかと考える。未来のことはわからないから、そう思っただけで結果は予測しないでおく。愛着が持てているのだろうか、わからないな。

 私はあの頃のケヤキの緑色が綺麗だったなってことが強く印象に残っていて、そう思える体験を増やすことがこれからできるのだろうか、と少し落ち込む。思い出は目的ではなく結果でしかないから、落ち込む必要なんてないのだけれど。

 iPhoneを持ったところで、私の世界は広がったのかな。

ワンプレート

その女の人は鼠色のパーカーに黒のパンツ、耳には白のAirPodsをつけて、先に運ばれてきたいちごのフラッぺをズズズと啜りながらスマホを見ていた。かっこいい人だなと思った。人間に対して好みがあるとすれば、私はこんな人をいいと思う、そういう良さだった。


私と彼女は1人ずつほぼ同じタイミングでお店の暖簾をくぐり、近いけれど別々の席に座った。肉と野菜とご飯がひとつのお皿に盛られたワンプレート形式のお店で、私も彼女も少ない肉と野菜とご飯が一緒にのったものを頼んだ。そして彼女はさらにフラッペも頼んだ。やるなぁ、と私は思った。

ほぼ同じタイミングでワンプレートが私たちのところに届き、私たちはそれを食べる。野菜を食べ肉を食べご飯を食べる。

サラダにはヤングコーンが添えられていて私はとても嬉しくなる。ぽきぽきと口の中で鳴る音が楽しいからいつまでも食べていたいのに、ヤングなコーンは1本しか入っていない。ハンバーグにも箸をのばす。食べる。普通に美味しい。この「普通に」とはなんなのだろうな。普通に美味しいとしかいえないこの美味しさ。美味しいとは思ってなかったけど、というか前置きが含まれるかしら。そうは思わないな。当たり前に美味しい、とも少しちがう。素朴な美味しさ。素っ気ない美味しさ。ただ美味しいという美味しさ。

ふとどこからか「殺してやりたい」という声が聞こえてきた。ああ、私の座っているカウンターの正面に座っている二人づれの女性か。

「このグミそんなに美味しくなかったんだよね」と同じテンションで吐き出された「殺してやりたい」は、ギョッとした私をたちまち安心させる。言葉を取り巻く言語化できない雰囲気はテキストにすると削ぎ落とされがちで、多分昨今の問題にも関わってきている。また、なかなか口に出せない言葉というものが各々存在していて、私は「死ね」とか「殺す」とかそういう言葉は多分自発的に使ったことがない。それはハリーポッターのせいだと思う。部下か同僚か、上司か、とにかく彼女の仕事仲間が使えないらしい。言葉って、コミュニケーションってなんなのだろう、と思った。飴玉を口の中で転がすような、そういうコミュニケーションがあるように思った。

喋らずにいられたらそれでいいのにな、と思いながら私はなおもハンバーグを食べる。空白を埋めようと喋りがちで、ひどい時には帰宅してぐったりするほどに消耗する。自己嫌悪に陥り、私はもうこれから一生喋らないと心に誓い、翌日起きたらそれを忘れているのだ。

気がついたら鼠色の彼女はそろそろ席から立ち上がろうと鞄を漁っていて、私の目の前の皿は使いかけの箸とお手拭きしか、ない。いつのまにか食べ終わってしまったようだ。長居するつもりもないし私も行くかと思ったところで、もう鼠色の彼女はいない席が目に止まった。いちご色のフラッペは三分の一、ワンプレートも野菜が残っていた。なんだかなぁ、そうか、そういうこともあるのねぇ…と思いながら、全自動の会計機にお金を支払う。千円札を入れたらピコーンピコーンと音が鳴って戻ってきた。

カメラ

 低いねえ、と中学生五人組部活帰りの少年たちは空を見上げながら騒いでる。

 見上げると、銀色に光る旅客機が飛んでいる様子が確かに大きく見える。

 あれはJALだよ、とそのうちの一人が言う。

 そんなんわかるん?と誰かが返す。

 JALANAかそれ以外かなんてわかるものなのだろうか。私は飛行機には詳しくないし、矯正しても0.8ぐらいにしか見えてない視力では、飛行機がただ銀色で綺麗であることしかわからなかった。電線の隙間から飛行機が見えた。それを写真に撮った。

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 注文していたカメラが届いた。嬉しくて嬉しくて、バッテリーを早速充電したけれど完全充電を待たずボディにセットして外に出た。空が青く風がそよいでいる日曜日の17時だった。

 ゆっくりとゆっくりと歩き始める。歩いていると、自分が体を持つ人間なんだということを感じることがある。自分の精神は、思考は、感情は、体の一歩先を行こうとするのに、どう頑張っても私は歩く以上のスピードが出せない。歩くことで私は有限性を知り、そして少しだけ苛つく。もっとはやくずっと遠くに行けたらいいのに、と。

 沈鬱な気持ちの時、いつもよりゆっくりと歩く。ついていかない気持ちに寄り添うように、体のスピードもそこに合わせるイメージ。音楽は聴かない。カメラは右手に持つ。スマホは鞄の奥底にしまう。そして、ただ歩く。

 焦らないことが肝要だ。泳ぐことも歩くことも書くことも生きることも、小さなことの堆積に過ぎない。365日の日記を一気に書き上げることができないのと同じように。ここ数年で「時間をかけないとどうしようもないこと」の存在感が増してきたように思う。それは私の中で人生観も多少なりとも変わったのだろうと思う。やっぱり日記を書くようになったことが大きいのではないか。

 そして、その小さなことは「何かを為すため」という目的があると続けにくい。少なくとも私の場合だけれど。理想としては、漠然と「こっちの方に歩きたいな」という気持ちで自然な気持ちでやっていくのがいい。書くことは多分その軌道に乗ったのだろう、では写真を撮ることは?

 写真を撮るためには申し分のないカメラを買ったし、当分は浮気することなくずっと使いこむことができたらいいな。撮れなくても焦らないこと。うまくいかなくても投げやりにならないこと。

 

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スケジュール

だれもいない、

だれもいない、

だれもいないったらだれもいない

と、心の中で歌いながら地下通路を歩く。私の靴がコンクリートをリズミカルに叩く音に合わせて。

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誰もいなかったのだ。驚くことに。

もしかしてのもしかして、私は私以外の人類全てを心のどこかで憎んでいるのだとすれば、どうしたらいいのかな、なんてことをチラッと考える。これは危険思想だ。あってはならない考えだ。愚かで傲慢で身の程知らずな馬鹿馬鹿しい考えだ!

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でも私は誰もいない場所を撮るのが好きだ。人を撮ることに躊躇いがあるということもあるけれど。残ってしまうし、写真として。一眼レフでもなくコンデジでもない、そう、ミラーレス一眼が欲しいな。とか思っていたら翌日本当に買ってしまった。ミラーレスではなくコンデジにしたけど。

 

なんだか悲しくなってしまった。

先ほどまでの安堵は一瞬にして恐怖に変わり(それは馴染み深く知っているやつだけれど)呼吸がなんとなく浅くなるので深く呼吸をするようにして、自分が泥沼の上を歩いてないことを確認するように自分の靴音に耳を澄ませる。コツコツという硬い音が聞こえて少し安心する。

別に私であることを示す必要はないし、誰のことを愛さなくても生きていいはずだ。生きることに理由なんて必要ない、もう差し出すものがない私だけど、息を吸っていいはずだ。頭ではわかってるし、わかっているからここまで問題なく生きていけている。私はいたって普通で、これはただ弱ってるだけのこと。

 

柴崎友香寝ても覚めても』の朝子は写真を撮る人間で、その恋人、麦は写真に撮られるのを嫌がる人だった。小説を読みながら、私は写真を撮りたいなぁと思っている。写真を撮りたいし絵が描けないから文章を書きたい。私がやりたいことなんてそれくらいで、大したことではないけれど大事なことなんだ。それはとっとと認めちまうぜ、と思う。

価値がない。全然ない。他者と比較してとかそんな話ではなく、絶対的に価値がない。そして、価値がないことは、他のいかなる理由にもなり得ない。例えば人を好きにならない理由にもならない。しかし私は人を好きにならない。

 

 

優しくない。救えない。何も変わらない。

 

翌朝、黒表紙の日記帳の真っ白なページをひらき、万年筆を手に持つ。書きたいことをどんどん書いていく。幾分気分がマシになり、体がばきばき痛んでいることに気づく。

ふと思い立って、スケジュール帳をひらく。無印良品のフリースケジュール。

私のスケジュール帳は予定より実際にあった出来事の占める割合が多くて、その日食べたものとか行った場所とか色々書いている。日記帳をぱらぱらとめくり、日記を書いた日はスケジュール帳に印をつけていく。どのくらいの頻度で日記を書いているのかというのを私自身把握していなかったことに気づく。4月、8/30。5月、22/31。6月、22/30。4月は死んでいて、5月から息を吹き返したって感じ。これ以上の頻度では書けなさそうな感じがしている。書かない日も風を通すためには必要と思う。

 

消えたいと凪いだ気持ちで軽やかに思う瞬間と、消えたほうがいいと思う泥のようなときと、今日も頑張ったなぁ、明日は何をしようかなと思うときが混ざりに混ざって私はできていて、それは特別矛盾しない。どれもそのときには真実であって、バランスが崩れることがないことを願っている。