潜水日記

思考の記録です。

 数日前の日記

 透明でありたい。はやく厄介な自意識から解放されて、もっと別のことについて考えたい。それは順序が逆なのでは。外側を見ることで内側が相対化されるというイメージ。だから、内と外のバランス、どちらへの洞察も不可欠ではあって、問題はバランスなのだと思う。

 落ち着きたい。

 冷静でありたい。

 静かでありたいし、やさしくありたい。

 どんなに暴風の中でも、轟音の中でも、ゆっくりと確実に言葉にできる力が欲しいなと思います。そしてそれはなるべく私の実感と繋がった、肉のある言葉であってほしい。

 

 犬に噛みつかれたとき、私は自分の血が体内で煮えたぎる熱さに目の前が真っ暗になり、次の瞬間、犬は近くの壁に鈍い音でぶつかった。私は足首のスナップを効かせ犬の胴体に蹴りを入れ、その肌で重さと毛並みの柔らかさと肉の確かさを確かに感じた。噛まれた箇所は血で滲み、痛みよりも痺れがはしる。噛まれたくない恐怖が血流にのって体内をめぐり、この愛玩犬を思いっきり踏みつぶしてやりたい衝動をどうにか押し殺す。代わりに噛まれないよう手足をバタバタを振り回して私はその場から急いで立ち去った。そして誰もいないところで吐くように泣いた。悲しくて恐ろしくて、仕方がなかった。

 いざとなれば人を手にかけることも厭わない人間なのかもしれない。そういう凶暴性の気配を感じた。私は自分の中に化け物を飼っているし、それは私だけではないかもしれない。相手を屈服させたい。否定したい。そういう欲が確かにあって、でも体はまだストッパーになる。殴るわけにはいかない。蹴るわけにはいかない。最後の砦がこの腕であり足であり肌であった。

 私は銃を持っていた。言葉にする方がより簡単で、弾丸となって発射された言葉が相手の腹を打ち抜く感触を私は肌で感じることができない。直接には。そういう銃を持っていることを忘れないこと。そして他人が不特定多数手あたり次第に撃ちまくる弾丸を自分から浴びに行くような真似はしないこと。

 

 犬のくだりは私の実話。いつの出来事かは秘密だけれど。私はその時心底自分に幻滅したし、でもそういう衝動を知ることができたのは良かった気がする。他人事だと、自分は関係ないと思うよりは、絶対マシだと思った。

 

 それ以来、動物に触れること、特に犬は苦手。

夏の夜

自分の肩幅が広めで首もしっかりしているところが好きなのだけど、丸襟のシャツは肩幅が広いといまいちなのでは、と思って、ユニクロでVネックのシャツを買い早速袖を通す。二の腕の部分に汗疹ができてしまってひりひりと痛い。爪を短くすること。なるべく清潔であるようにすること。濡れ布巾でその部分をこまめに拭くのもいいらしい。どうやら本当に夏がやってきた。

徐々に日が暮れていく。部屋の中も暗くなっていく。開け放った窓から風が流れ込んできて、部屋のカーテンがぱたぱたと揺れる。夕方になって風が出てきた!こんな夏の夕暮れ時が、私は大好きだ!だ~~~いすき~~~~と両手を上に伸ばして叫びたいぐらいには好きだ。

夜も冷房は不要で、風量は中にした扇風機の羽は先ほどからブーーーーーーーーンとまわっていて、私は横になってその音を聞いている。

夏の夜に吹く風は、どこかくすぐったい。こちらの気持ちを落ち着かなくさせる。何もやましいところはないと思っていたのに、実は秘密の一つや二つ抱えていてそれを覗かれているような。窓から入り込んでくる夜風は茶目っ気もある。眠るのが惜しくなる。カーテンがさわさわと揺れる。夜だから。

 

75年前の地獄に思い馳せ、今なお存在する誰かの地獄のことを考える。私はほわほわとした気持ちで微睡んでいて、暖かい夏の夜らしいと言えばらしいのかもしれないけれど、それは私の夜であり誰かの夜ではない。私は誰かの代わりにはなれないし、誰かが私の代わりをするわけにもいかない。天井に遮られて見えない真っ黒な天球の下、誰かと夜を共有できたらいいなと思った。多分今日の風はどこかの誰かの部屋の窓に吹き込んでいるだろうと思う。それだけでいいかと思うことにして、今日は寝る。

8月15日

 灼けつくような日差しを晴雨兼用の折り畳み傘を差すことで和らげる。空はぼんやりとした青色で(やっぱり冬の刺す様な鋭い青さと比べると「ぼんやり」と形容せざるをえない)どこかで蝉が鳴いている。

 その青さを眺めながら「8月15日の午後12時半くらいのこと」で始まる曲の名前を探していた。だって空が青いのだもの。歌詞もメロディも思い出すことができるのに、曲のタイトルだけ思い出すことができない。歌詞から連想できるタイプの曲でも無さそうなので、仕方なく傘を差す手とは反対の手でスマホを取り出し、YouTubeアプリをひらく。ブラウザで調べればいいものの、ミュージックビデオを見たほうが早いと思ってしまったのだ。わかっているのは、初音ミクの楽曲で、ボーカロイドの曲はまったくと言っていいほど知らない私ですら知っているほど有名で、出だしが8月15日で始まる曲だということ。「初音ミク 有名な曲」をYouTubeの検索バーに入れていくつかヒットした動画のコメント欄でも見てみる。「有名な曲30選」や「○○メドレー」なる動画には、コメント欄でそれぞれの曲の名前と再生開始箇所をまとめてくれる人が一人や二人いるものだ。まったく、迂遠な調べ方だ。

公式↓

youtu.be

公式より再生されているPV↓

youtu.be

 特に自己解釈PVの方の空の青さをおぼえていた。黒と白と青と赤色。

 

 この曲を、9年後?の暑い夏の日に、わざわざ探し当てて聴くとは思ってもみなかった。イヤフォンを忘れたからスマホのスピーカーで直接流すことにして(周囲に誰もいないことを確認して)耳元に充てて聴きながら、人生の脈絡のなさというか、予測のできなさに少し震える。いや、私の中で今日この曲を聴いたのは連想ゲームに近い過程の結果なのだけれど、他の人に言葉で説明しようと思っても少しだけ手間がかかるし、空を見ながら無数にある青の中でもこの曲の青に辿り着いたかまでは、わからないのだった。

 懐かしい感覚。ここ数年の私の生活で、あと10年後仮に私が生きていたとしてふと思い出す様な、つながるような瞬間、そういう思い出や光景というものはあるのだろうか。なさそうだな…と言いたいくらいには薄い生き方をしている、気がする。

 そして忘れてはならないのは、8月15日というのは日本にとって多分世界にとっても重要な日だということである。今日は8月15日ではないけれど。また、私個人的にもほんの少しだけ大切な日だったりする。

一週間

屹立と立ち並ぶビルをぼんやりと眺めながら、私はスターバックスコーヒーの新作のピーチなんとかフラペチーノと格闘している。店員さんがはめてくれた(人の手は自分の手ではないから魅力的だね!)蓋をぱかりと外して、緑色のストローで生クリームをすくっては口に運ぶ。ストローはもちろん飲み物を飲むことに特化した構造をしていたから(一方夏祭りの屋台のかき氷屋さんのストローは氷をすくうための形をしている。嗚呼!夏祭り!)ゆるんだ生クリームはあっけなくフラペチーノの海に落ちてゆく。それでもすくえる分の生クリームを食べたところで、唐突にいちごのショートケーキを食べたくなる。こんな風に何かを食べているときに、他の食べ物をあるいは上位互換(冷凍うどんを食べながら本場香川県讃岐うどんを食べたいなぁ…)を思い浮かべてしまうのは私の癖で、「上位互換」なんて言葉はきらいなのにあっけなく使ってしまった。なんてこった。冷凍うどんもとても美味しいのに。

ずーずーと甘いシロップのような液体を飲んでいると、今度は「8月8日はいつだっけ」ということを考え始める。8月8日に公開される動画があるのだ。今日は8月3日で、一昨日の土曜日が8月1日。そこに7日加えれば8月8日なのだから、8月8日は次の土曜日ね。そこで私はあることに気づく。7日を足せばいい?つまり1週間は7日でできている?7日?ほぼ10日間では?(厳密には違う。7日間は10日間よりも5日間の方が近い)

愕然とした。1週間は7日で、できている!

 

そりゃあ、1週間いこーる7日というのは理解していますが、実感を伴っているかというと話は別なのだ。つまり私がなんとなく「1週間後の土曜日楽しみだなぁ」と思ったが最後、その間の7日間はただの7日間になる危険性があるということだ。1週間を見送るなど簡単なこと!なんとなく過ぎた1週間は私の寿命が7日削り取られていることと同義では?なんてこった。ずーずー(桃の果肉がストローに詰まっている)。

 

7日。1週間先という呼び方がダメなのかもしれない。7日後。ほら、ちょっと遠くなった気がする。

探検隊

 夕暮れ時、日差しは強いが風がそよいでいて世界が心なしかオレンジ色に見える。私はサンダルをスタスタと鳴らしながら歩いていて、正面から4人のかたまりがやってくるのが見えた。お父さんと長女と次女と長男。おそらくは。

 お父さんと思しき大人の男の人は、丸眼鏡をかけてひょろひょろの体でカーキ色のTシャツと短パンで細い脛が見えた。そして煙草をすぱすぱと吸っていて、途端に私はこの人のことが好きになる。三人の子どもの中では長女と思しき女の子がぐんと大きくて(それでも小学一年生になっているかどうかだろう)次女と長男と思しき女の子と男の子は背が大体一緒だ。男の子の方がちょっぴり背が低かったから、次女の方がお姉さんかなと思ったけれど本当のところは知らない。

 すれ違いざま、彼ら彼女らの会話が聞こえてくる。お父さん「それでは隊長さんは誰ですかーーー?隊長さんが先頭を歩くんですよーーー」そうか、彼らは探検隊なのか。確かにお父さんはTシャツを同じ色の帽子を被っていて(ちょっとアウトドア仕様)リュックも探検風だ。そのうち長男が「はーーーい」と手を挙げ前に一歩出る。子どもたちは両手にそれぞれペットボトル飲料を抱え、隊長さんのは三ツ矢サイダーだった。夏だもんな。今日は八月二日なのだと、長い梅雨も明けたのだと、その時私はようやく夏の到来を感じたのだった。風が気持ち良かった。

「その日はうちの嫁が病院に行くって言うものでそれに付き合うので…」

仕事で上司同士がそのような会話をしているのが私の耳に入ってくる。

 

私は他者の言動に対して判断を下すのが苦手だ。逃げているのかもしれない。

言語化できないところがあるし、言葉にすることを回避している節がある。その発端は自分の両親に対して幻滅したくないという子ども心ではないかと思う。父の振る舞いに対して、母の言葉に対して、私は自分の価値観で判断を下したくはなかった。逃げ道を作りたかったし、言葉にしなければそれは本当にはならないと思っていたから。あとは、昔から父も母も、世間一般的なレベルでの噂好きであり他者を批評する人間だった。私はそれを「そうは言っても…」と宥めたり提案したり逸らしたりしていた。これは多分私の性格や考え方の問題で、私は極端にどちらかに寄っている状態が好きではないのだ。AがあればBもある、そうやって可能性を残していくことを好んでいたから、母がAと言ったところで、私はBもあるじゃないかと、常に反対のことをしていた。私の文章はかなりA but Bの用法を多用している。そのことは、一応自覚している。

ということで、上司の嫁発言についても、別にそれが上司の人となりを判断する材料にはなり得ないし「この人はこういう人なんだ」と断定するつもりもない。しかし引っかかったことは事実で、だからこのような文章を書いている。

 

「嫁」という言葉は好きじゃない。好きじゃないというよりは、私自身は使うことを極力回避したいと思っている。オタクの領域で「うちのヨメ」という使い方がされているのをしばしば聞くが、あれはまたニュアンスが異なると思うので(どちらかというと、カタカナだ)ここでは考慮しない。あくまで生身の人間、自身の配偶者を指すときに用いられる「嫁」についてだ。

まず漢字からして「女」と「家」だ。まあ、でも女が家にいなければいけないわけではないからな。だから私は漢字が微妙だと思っている。あと個人的に気になるなぁ~と思っている「嫁」という感じの成り立ち。正確には追えてないので不思議だなと思っている「責任転嫁」の「転嫁」という単語。何故に?と思うから逆に印象に残って覚えやすい単語なのだけど、何故に「嫁」。あれかな、女の人が旦那の家に行く「移動」のイメージが「おしつける、かずける、罪を他になすりつける」の意味になったのか…?(漢和辞書を引きながらぶつぶつと)

ということで、私個人としては「嫁」は「無い」言葉だ。重ねて言うけど、他の人のことは知らない。

 

加えて、妻とか夫、奥さんもあまり使わないと思うので、なんというか配偶者を指す言葉としてもう少し違う言葉を編み出してもいいような気がする。何故、妻や夫、奥さんなどの言葉を使わないと思うのかというと、そこにはジェンダーが絡んでくるような気がするから。できるだけ多くの人がフラットに使えるような表現になればいいなという気持ちがある。また、自分が使うからには聞き手の人にもモヤっとした気持ちを抱いてほしくないからということもある。

この関連で言うと、最近めちゃめちゃ引っかかっているのが「もし自分が女だったら(男だったら)誰と付き合うか」という質問なんだけど、それも書いていいか(止まらない)(ていうか、そもそもこの質問って圧倒的に男性が振られる話題な気がするのだがどうなんだ)。

私は「性自認が女で恋愛志向が希薄なヘテロセクシュアル(仮)」だけども、仮に女性のことが好きな女性だったとして「もし自分が男だったら付き合いたい子、誰?」と問いかけられたとき、私はもしかしたら答えられるかもしれないけれど(でも女性同士の会話でこの話題になることは本当にないね)

女だけれど男になりたい女なのか、

女で女として女を愛したい女なのか、

そもそも人のことを愛するという選択肢がない女なのか、

またはそれ以外のあらゆる場合、

という考慮はものの見事に欠如していて、暴力的だとすら思えてしまう。

この質問は難しい。私は「恋愛対象として考えたときにどんな人間を魅力的に思えるか」という答えのいわば上澄み部分を楽しんでしまうけれど、その答えが出力される過程に様々な暴力性が秘められているような感じがして、それならば私の楽しみは別にどうでもいいので(死にはしないので)質問すること自体を控えたほうがいいんじゃないか、と思ってしまうのだ。

 

と、言葉に対するこだわりを考えるときりがない。これらのこだわりは私個人の領域において適用されるものであり、他の人がどのような言葉にこだわりを持つのかというのは私の関心事。

私には好きな道が一本あって、住宅と住宅の隙間をゆくその道の真ん中にどーんと立ち、私はカメラのシャッターを切る(車も自転車もきません)。季節の変わり目に無意識に(そして後で写真を整理して気がつくのだ、ああまた撮っているなと)。

用水路に蓋のようなものを渡したような作りで、永遠に蓋が並んでいる。その上を俯きがちに歩いていると様々な発見がある。セブンイレブンイカ焼きのパッケージ、レッドブルの空き缶、熟れた柿、名も知らぬ花弁、誰かの吐瀉物、カメムシの死骸。

今日は蓋と蓋の隙間に詰まった苔を見つけた。青々とした緑。ふかふかしてそうな容姿。たとえ私のパンプスが彼らを踏んでしまったとしても3秒後にはむくっと元の形に戻ってそこにあるような、そういう逞しさを私は勝手に感じて、70cm向こうに次の苔を見つける。

おそらく一週間とたたず、この道には強烈な日差しが差し込むことになるだろう。地面に横たわるあらゆる存在を焼き切る陽の光が。その時にこの苔達はどうなるのだろう。

私は明日も明後日もこの道を歩く。