ベランダの実験室

思考の記録です。

文章(20190405)

圧倒的にインプットが少ない。枯れる。吸収しなくては、と思うのだが、水は低きところに自然と流れてしまう。最低限のことをこなすことで精一杯だ。

 

本棚

私は読書量に対して比較的本が少ないと思うのだが、家にはほどほどに本がある。が、本棚がない。本棚を買ってそこに本を並べるのがささやかな夢である。実現できそうで、できていない。

私は食器棚よりクローゼットより本棚を持ち歩けるようになればいいと思う。私の場合は。デジタルな空間に本棚を再現するのではなく(実際そういうサービスはある)物質的な本棚を持ち歩きたい。四次元ポケットの中にいれて、必要な時に取り出すのだ。

どういう時に?

「あなたは誰ですか?」と聞かれた時に。あとは心細くなった時に。好きな本の表紙をさらっと撫でていると私は大丈夫だと思えるから。

 

きらめきの瞬間

私はあなたではないから、心の底から共感し心震える機会なんてついぞ訪れないわけで、それを喜ぶべきか悲しむべきかいまだに混乱して意味もなく落ち込む夜があるわけですが、ほんの一瞬、きらめいたと思う時、私は嬉しいなと思うわけだ。きらめいた?光が反射したということですか。共振、共感、発見。少し似ているね、とか、同じこと思ってた、とか、わからないけれどそれが美しく大切なのだと思えたときのことか。そういうときだ。

私の営みの基軸は、実はそのきらめく瞬間をいかにたくさん体験できるかであって、文章を読むのもその営みの一環なのでした。

 

頭がよくなりたい

昔から頭がよくなりたい、と思っていた。知は力なり。知ることはなんとなくだけれど、私の中では解像度をあげるようなイメージ。頭がよくないと世界が面白くないのでは?と思った。世界に飽きるなんてことがあったら生きていけなくなるので、私は頭がよくなりたかった。

世の中には私が知らないことを知ってる人がたくさんいて、憧れる。もっと勉強しておけば良かったなと思う。

 

私の頭の中の黒板消し

「私の頭の中には消しゴムがあるの」

映画『私の頭の中の消しゴム』は若年性アルツハイマーを患う主人公の物語、らしいというのは知っている(見てはいないのだ)。

私は今はまだ特に病を患っているわけではなく、どちらかといえば処世術である。

特に眠りにつくとき顕著なのだが、私は頭の中で情景を思い浮かべることがある。思い出のワンシーンかもしれないし、自分で創作した物語かもしれない。ドラマの名シーンかもしれないし、未来の自分かもしれない。「絵」としてそれを思い浮かべたとき、すんなりと消えてくれない強い絵がある。消したいのに、消えない。過去の失敗談とかはなかなかに手強い。

そんな時、私は黒板消しを思い浮かべる。で、それを絵の上でさささっと滑らせる。絵がするすると消えることをイメージする。そうすると、無意識に絵は埋葬される。もう、意識にあがってこない。

消しゴムではなく黒板消しにしたのは映画の物語に対する一応の敬意と、制御できない消しゴムはたいそう恐ろしいと感じているからだと思う。私の頭の中には黒板消しがありますよ。

 

(追記)

制御できる黒板消しはいいけれど、私の中に消しゴムが現れたら、その時私はどう思うだろう。