ベランダの実験室

思考の記録です。

喋りたくないという状態について考える文章(20190315)

喋りたくない

喋りたくない、という状態に今、まさに陥っている。そのことについて考えてみよう。

まず、喋ること自体は好きも嫌いもないと思う。思うけれど、喋ることはできるし楽しさを感じることもある。だけど、喋りづらいなと思うことはよくある。それはどんな時か。

自分にとって大切なこと、上手く言葉にできていないことは喋りづらいと感じる。手探りで自分の考えと周囲の状況とを照らし合わせながら喋るからだ。

逆に自分にとって既に言葉になっているもの、答えが内容が用意できているもの、あとは心底どうでもいいと思えることについては、よく喋ることができる。驚く程にぺらぺらと。

喋りづらいと、喋りたくないは、全く異なる。喋りづらいを拗らせた結果が私にとっての「喋りたくない」だ。

 

喋りづらいの中身

考える。考えながら、探りながら喋る。

相手の反応を見ながら喋る。それが私が伝えたい内容と相手に伝わる内容、その中間地点を探る。最適解か?常にその照合作業をしながら喋る。でも実際はそれが上手くできていないのか「お前の言ってることはよくわからん」と言われることも多い。マジか。

だから、相手の反応が掴めない時はかなり混乱する。伝わってるのか伝わってないのか判断がつかない、という状況はさらなるシミュレートが必要ということを意味するからだ(この人はどんな人なのか?私の場合だけこのような反応なのか?他の人の場合は?飽きている?うんざりしている?わからない?わかってる?)。混乱すると疲れるので喋りたくなくなる。

次。喋る。反応がある。考える。キャパオーバー。この場合だ。反応があった時に、思考がぐるんぐるん加速して連想し拡張して収拾がつかないとき。オーバーヒートして処理が落ちる。それは例えば自己に関する時。自分の欠点に思考が発展する時に起こりやすいことだと思う。

自分の至らなさ、それは他者の目にはどのように映っているのか、ではそれをどのように改善しなければいけないかを考えてしまう。要は自意識過剰な部分が剥き出しになってしまうのだ。

 

ここまで整理してみた。今私はとても喋りたくない。疲れました。改善のための道はまず分析から。