ベランダの実験室

思考の記録です。

知っていることの呪縛(20190221)

 私には従弟がいて。別に苦手でも嫌いでもないのだが(そもそもそういう判断を下せるくらい会うことがない)彼に関して印象に残っているのは、話すのが好きだということで。彼が話す多くのことを私は知らない。「へー」だの「ふーん」だの相槌を打ちながら耳を傾ける。馬鹿にされているとは感じないし、単純に「話すのが好きなんだろう」と思って聞いているけれど、私としては話を聞くこちら側に「話を聞かない」という選択肢が残されていないように感じてしまうわけで、それが意味するところは、彼が「身勝手な人」ということだろうか。あるいは私が狭量な人物ということか。

 こういうことを感じているので、人に何かを説明することに対して快感を感じることがあまりない。むしろ喋りたくない。自分の説明がとてもわかりづらいものであることも自覚しているのでなおさら。相手の時間を奪って(「奪う」と形容している時点でもうダメなのだ)まで主張したいこと、ある?

 「知っている」と「知らない」という2つの状態。水の流れを思い浮かべてしまう。「知っている側」から「知らない側」に流れができているイメージ。温水と冷水が混ざり合って次第に均されていく様子。水は高いところから低いところに流れるもの。「知っている」が上流で、「知らない」が下流

 でも、本当にそうなのだろうか。

 知っている状態も知らない状態も対等なのでは?と思うのだ。対等というのもおかしいな。2つは単なる状態に過ぎないというか。別に知っていても知らなくてもいいじゃないかと。知っている自分がいて、知らない自分がいて、知りたければ知ればいいし、知らないといけないときに知ればいいし、知らない状態から無理に脱する必要がないと思えば脱しなくていいのではないか。つまり、そのままの「知らない」があっても良いのではないか。と。

 

 ブログを続けられているのは、もしかしたら「知らなくて結構」という気持ちがあるからかもしれないね。「知らない」「未熟」な状態だって1つの在り方で、その状態で書いていくことだってかけがけのないものじゃないか、という気持ちがあるからかもしれない。

  さらに書き物は読む人のペースに委ねられるじゃないですか。一方的に文章を投げつける乱暴さはあるけれど、投げつけられたものを目を閉じて読まないというの読み手によるでしょう?そういう間合いの取り方がいいなぁと思ってます。