ベランダの実験室

思考の記録です。

どストライクなんてあるわけがない(20190112)

 ドストライクなんてあるわけがない。あるのは、ちょっとだけ似ているとか。ちょっと同じとか。そういうごく一部分の領域がちょこちょこ被っていたりやっぱり異なったり、それだけだ。

 

 私の好きなものについてそれ好きだよ、と言っている人の文章を読むのが私は大好きだ。それがブログの出発点。でも、その人は私ではないのだから、絶対相いれない部分があるわけでそれを発見するのと楽しめたほうがよかろう、と思っている。ましてや「ああこの人と私は違うのだ…」と意気消沈するなんて。でも時々落ち込む。ああ違うのだって。それではこの世界には私以外誰もいてはならない、ってことになってしまうではないか。

 ということで、Twitterのアカウントを分けることは考えてはいるけれど苦手です。要は自分を都合の良いように分節化したくないのだ。SNSの私ですら、私のある一面に過ぎないわけで、これ以上自分を分節化してもね。ただでさえ切り刻まれているし、そういうのが人間みたいなのだけれど。好きなものAと好きなものBと好きなものCと好きなもの∞で構成されている私なのだもの。もしかしたらある人は好きなものAに関する言葉に多く触れたいのかもしれないけれど、私はAを愛でたいときもあるしBを愛でたいときもあるんだ。一途×∞です。

 ドストライクなんてあるわけがない。そう言い聞かせて生きているのは、力を抜くとドストライクを求めてしまうからで、つまりは私が自己愛を拗らせていて尚且つ他人が嫌いなのだろうと思ってしまうのです。一体どうしたら。もう文章を書くことが自己愛を助長しているのではと思ったら私はどうやって生きていけばいいのだろう。自己愛万歳?自己愛の反復作業じゃなくてそれは記録の為です、とあくまで主張するのならば、では私はどうして記録したいの?

 他の人の文章の起源は一体何なのだろう、と考える休日です。