ベランダの実験室

思考の記録です。

私に巣食う仲間外れの病理(20181130)

「私〇〇なの」と言うことは、拒絶に等しい、と最近つとに思う。その宣言は私を拘束するものではなく暫定的なものであるにも関わらず、私らしさに拘泥した結果安寧を得られこそすれ、他者から見た私像は限定される。あるいは自分も。

だから、あまり宣言をしない方がいいのかもしれないなと思っているのだ。呪いでありライナスの毛布であるから。

 

この人不快だ。そう思ってしまう人は時々登場する。不快な人と不快な人の比較で選ばれるから、狭い共同体内で大体1人である。スケープゴートみたいな。少し不快な人と、だいぶ不快な人となら少し不快な人に対しては途端に寛容になれる。

私の身近にも今そういう人がいて、だからこんな文章を書いている。

悪い人ではない。私が勝手に気に食わないだけ。気に食わない理由を挙げることも虚しい作業であり、自分の心が刺激に対して馴化するのを待っている段階だ。

 

私は明確に「仲間外れにされた」と思ったことがない。仲間外れにされないような生き方をしてきたし、外されるくらいなら自分から外れるような感じだった。

誰かを「仲間外れにした」ことがあるのかと問われると「よくわからない」と答えざるを得ない。意図して仲間外れにしたことはないけれど、自然と仲間外れにしてしまったことはきっとある。

明確に「誰かを仲間外れにしたい」という感覚はもしかしたらこういうものなのかもしれない。私は今、仲間外れにしたい気持ちを噛みしめている。

違和感の排除、自分の安定した心の維持、無頓着への苛立ち。その暴力的な解決方法の1つがきっと「仲間外れ」なのだろう。

 

私はあの頃、仲間外れにしたいほど他人に関心がなく、形を保てなかった自分をどうにか維持することで精一杯だった。

今、こうして余分なことを考えられているのは少しは余裕が得られてその分意地悪になったからか。そして自分の細胞壁が厚くなったからだと思う。

私は私、の弊害。他者に寛容でいられない。