ベランダの実験室

思考の記録です。

私の家には『六番目の小夜子』の花瓶がある(20181127)

タイトルの通りなのです。

六番目の小夜子 - Wikipedia

あの頃はまだテレビの大半が四角い箱で、奥行きたっぷりのアナログテレビは部屋の片隅に打ち捨てられていたけれどまだまだ現役だった。テレビの画面から1mとかそれぐらいの恐ろしい距離で、私は一人膝を抱えてこのドラマを見るのが大好きだった。

幾度となく再放送されており(5回ほどらしい)いつの放送を見ていたのかは知らない。多分何回も見たのだと思う。とにかく魅了された。どきどきした。

閉鎖的な学校空間。制服(私はまだ制服を着る年ではなかった)。机。学園祭(これも、以下略)。独特な文化。喫茶店。写真部。鍵。体育館。そして、花瓶。

魅惑的なアイテムと風習の数々。ああ、愛おしい。いざ自分が学校という場で実際に生きることになると、愛おしさはたちまち霧散し現実のつまらなさに置き換わる。誠に残念なことであった。

六番目の小夜子』では「サヨコ」という不思議な伝説があった。サヨコは代々間隔をあけて受け継がれる。サヨコにはやらなければいけない指名がある。その1つが赤い花を花瓶に活けて飾ること。確か毎朝だったか。その花瓶が収納されているの棚の鍵も重要なアイテムだったね。自分しかもっていない鍵。自分しか開けられない鍵。どきどきする。鍵はそうでなくっちゃ。

私が小学生の頃は「交換日記」というものも流行っていて、鍵をかけられるノートがたくさん女の子たちの間で行き来していた。私は悲しいことに誰かとノートを交換したいって自己主張もできなかったし、誰からも声をかけてもらえない子だった。交換する相手と自分しか持っていない鍵。なんてワクワクするものなのだろう。あのワクワクは今の時代も残っていていいものだと思うけれど、きっと私みたいに誰ともノートを交換できない子もいるのでしょうね。

サヨコが花を活ける花瓶。

それと似たような花瓶が私の家にはある。

花を飾る趣味が無いので普段はどこかの棚にひっそりとしまってあるけれど(その棚は鍵をかけるような棚ではない)誰かから花をいただいた際は活躍するのだ。赤い花はあまり活けないけれど。

花瓶を見るたびに、私は『六番目の小夜子』を、膝を抱えて画面を凝視していたあの頃を思い出す。そうやって愛しいと思える記憶は普段は忘れているけれど、ふとした瞬間に思い出す。そんな思い出は圧倒的に20歳になるより前のものが多く、今、私が見ている風景を思い出すことはあるのだろうか、と心配になってくる。思い出したくて思い出すものでもない。覚えておきたくて思い出すものでもない。自然に、偶然に出来上がるアルバムの1ページみたいなもので、私は結構その営みを面白いと思っている。自分では制御できない分、中身がわからない福袋のような刺激があるから。

私の家には『六番目の小夜子』の花瓶がある。ガラスで意匠が施されていて、重たくて。私の家には不釣り合いな花瓶。見ていると、心をざわつかせる花瓶が。