ベランダの実験室

思考の記録です。

切なさ至上主義(20181121)

今年になってカップ焼きそばが食べられなくなった話はした。

 

dorian91.hatenadiary.jp

 

以来、全然食べていない。食べる前からあの乾麺独特の味とか、食感とか、ソースの味とか後半のもったり感とか、なんだかイメージできてしまってお腹がいっぱいになってしまうのだ。もしかしたら↑の記事で言葉にしてしまったことの弊害かもしれない。それはあまり良くないが、とにかく焼きそばが以来食べられなくなった。

 

そして次にできなくなったな、ということを見つけた。テレビが見られなくなった。

朝の情報番組も無理。ドラマは好きなものならかろうじて。バラエティなんて本当に無理。30分とかその長さの時間を、テレビの前でおとなしく座って見ることができない。あるいは心の準備なしに情報の渦に巻き込まれるのが耐えられなくなったのかも。虹色に華やぐテレビからの音を聞いてクラクラして自然とリモコンに手を伸ばしている自分に気がついて、あ、テレビ無理になったんだな私、と思った。

重ねて重ねて言うけれど、こんな風に世界を断定する傾向は良くないと思う。こだわり人間は生きるのがつらい。こだわらないようにこだわらないようにと思えば思うほど、私は今日も明日も色々なものを決めつけているような気分になる。ううう。

 

そしてそんな私の世界断定キャンペーンの余波は、「切なさ」にもやってきたのだった。

kotobank.jp

「切ない」とやら、しんどい。

 

昔は大好きだった。大好きだったというのもおかしいのだけれど、心の琴線に触れたような、胸がぎゅっと締め付けられる感覚は素晴らしいと思っていた。その心の動きは人間らしいと思っていたのかもしれない。あるいは自分は「物が分かっている人間だ」と思いたかったのかも。私はそう思いたかった気がする。

でも。

最近ただただ疲れるのだ。心のわずかな揺らぎでさえ消耗するような。できるだけ静かにしっとりと日々を送りたいと思っている自分がいる。その一方で、こんな毎日つまらないと不満を抱いている自分もいて厄介だ。切なさはそんな穏やかさには相いれない存在ではないか。

これは、私が変わってしまったから?果たしてどちらに?良い方へ?悪い方へ?

わからない。

わかるのは、私が生きているということ。時間が流れているということ。「あの頃」なんて戻れない。不可逆。「あの頃」なんて、うんざり。

 

きついから。あらゆる五感を断ち切ってしまいたい。何も感じたくない。

切なさ至上主義ぽかった昔の私は今の私を見てなんて言うだろう。私は過去とか未来とか比較的そういう空想をしない人間だったから、意味がない問いかけかな。きっと「そういうもんでしょ」って言うと思う。

切なさにちょっと胃もたれしている私も、そのうち休めば元に戻るかもしれないし。単純に疲れているだけかもね。お疲れ。

youtu.be