ベランダの実験室

思考の記録です。

心中できる恋人と心中できない友だち/読書の秋に寄せて(20181120)

今週のお題「読書の秋」

 

心中できる恋人のような本に囲まれるのは、果たして健康的なのか。

「読書の秋」というお題から私がふと考えたのは、こんなことだった。

 

絶賛「断捨離」中である。といっても、捨てられない性分、整理整頓が苦手な人間の「断捨離」なので程度は軽いし、身の回りのものを整理しがてら不要なものは捨てているという具合である。

本も例外ではなく、私の部屋には平積みにされた本のタワーが何本も立っている。それらを倒さないよう動く身のこなし方もだいぶ様になってきた。近日中にはそのタワーを解体し、手放す本と残す本を選別していくだろう。

 

「中途半端な気持ちで本を買いたくない」という気持ちがある。

元来「本を買う」ということは私にとっては日常的なことではなかった。本を買ってもらえなかったし(「あなたに本を与えるとお金がいくらあっても足りないから、本当に必要で読みたい大事な本だけ買うようにしなさい」)買いたいほどの本もあまりなかったのである。

だけど自分である程度お金を自由に使えるようになって、少しずつ本を買うことをチャレンジするようになった。結果どうなったか。

熱の度合いがまったく異なる本が私を囲むようになった。

気分としては「本命の彼女」と「時々会いたくなる彼女」と「友達のような彼女」と(以下略)が本棚に一緒くたに並べられているような状態である。例えが屑であるが、感覚としては間違っていない。つまり、手元に置いてある本に抱く気持ちがてんでバラバラなのだ。

めちゃめちゃ好き。私の人生観を変えてくれた、という本もある一方で、好きなのだけどーたまーに読めばいいかな?と思う本もあり、ちょっと何言っているかわからないけれど、引き込まれて手放すことができない本もあれば、読みたいのだけどいまだに読破できていない本もある。

この温度差に、今、私はむずむずしている。気持ちが悪い。「めっちゃ好き」な本だけ手元に置きたい。そういう乱暴な感情に襲われる。だから断捨離を決行しているのだけれど。

 

果たしてそれでいいのだろうか。

良くないのではないか。それって「健康的?」

 

健康的でないのでは?と思うのは、自分が白か黒、イチかゼロか、みたいな極端な思考に陥っているのではないかということである。元々そういう風になりがちなこだわり人間なのだけれど、その性向を自覚しているかどうかは大きい。歯止めが効くからだ。ああ自分は今極端になりがちだな。ちょっと許そう、と思えるから。

でも、こういう無意識的に白か黒かはっきりさせるような態度をしているのはちょっと危ない。気がする。

今の私は「めっちゃ好き超好きこの本があったから私は元気これからもよろしくね」みたいな本ばかり、本命の恋人ばかりを手元に置いてウハウハしたい人、みたいな風になってる?いや、やっぱりこの例えは不適切だな。やめよう。要は自分にとって「スペシャル」なものしか置きたくない!!!みたいになっている。でもそれって、本当に楽しい?おんなじ物にならない?飽きない?飽きる気がする!!!

 

本は心強い友人であるし、頼れる先輩でもあるし、人生の師匠でもあるし、家族みたいなものだし、憧れの人だし、理解できない人間のような存在だ。できることならたくさんの本を手元に置いてわくわくしたい。心中できる恋人と大恋愛をする一方で、心中なんて無責任なことさせられない、信頼できる友達のような関わり方もしたい。

本に対する温度のズレを「違和感」「不快感」とは捉えず、「多様性の面白さ」と捉えたい。自分という人間の関心の幅を広くとっていきたいし、それを抱き込める人間になりたい。

 

今回読まなくなった本は手放そうと思っているけれど、これからも本屋には足繁く通い、本を通していろんな世界を見せてもらいたいなと思っている。