ベランダの実験室

思考の記録です。

満員電車の身体(20181108)

身体性と行為について考える。というか、考えたい。

通勤電車の身体。食べる時の身体。社畜中の身体。私はその時々の身体の感覚、行為が連れてくる実感みたいなものをできれば残しておきたいのだと思う。これはすごく難しくて、渦中であるとなかなか書けない。身体性という具体的な感覚を記述するために言語化しないといけないから一回離れないといけないのだ。

私は以前スポーツをしていたことがあって、その練習が嫌で嫌で仕方なくてやめてしまったけれど、今思い出すは苦痛じゃなくて甘美な身体の感覚。ハードな練習をした後の安堵と充足感。良い思い出ではあるのだけど、良い思い出だけではないことは他ならぬ私が知っていて、でも後から振り返ると「良い思い出」ばかり残してしまうのが私だから、できれば渦中に巻き込まれているその時の私が責任持ってつらいこととかも書いて欲しい。

満員電車の身体について書くとすれば何だろうなぁ…。

私は電車ってとても公共の乗り物で今にも壊れそうな緊張が維持されてると思っている。そこに例えば少し変わった人とか、誰かのスマートフォンの目覚まし時計とか紛れ込むと空気に亀裂が入って面白くヒヤヒヤする。比較的無関心が保たれてて、電車の中というのは私は嫌いじゃない。誰かに触れられるのが好きでなくパーソナルスペースもかなり広い私だけれど、電車の距離感は何故か苦痛に感じない。思うに、そこには「私」がいないからだと思う。私はただの人。名前がない人間。多分そこで「私」に手が伸びているとと察知した瞬間一気に不快指数の数値が跳ね上がるのだと思う。

色々と時間が足りない。頭も足りない。知識も足りない。

そんな日だった。