ベランダの実験室

思考の記録です。

鰻と菜食(20180919)

これは夏の記録である。

 

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もう私は鰻を食べないぞ。心に誓う夏であった。

今年の7月20日は土用の丑の日であった。もはや土用の丑の日とはどんな日か理解しないまま、私の中では鰻を食す日として脳内に刻み込まれている土用の丑の日

が、今年は少し違う。もう鰻を食べるのはやめようではないか、と思うようになったからだ。

もしかするとウナギは絶滅してしまうかもしれない。

鰻は高い。

ウナギはどんどん獲れなくなっている。

ウナギは完全養殖の生き物ではない。

ウナギの生態はまだわかっていない。

つまり、よくわからない。

だけれど、私たちは食べている。よくわからない土用の丑の日、というだけで。

 

とりあえずよくわからないけれどウナギは絶滅危惧種らしい。それならばもう少しウナギという資源について考えません?が、筋だと思うのだけれど、実態はそうなっていない。土用の丑の日も有名なチェーン店がこぞって鰻を販売していた。それを買っている人もたくさんいた。2014年に絶滅危惧種に指定されているものの、私がウナギヤバいと思ったのは2018年なのだから、私も同じ穴のムジナである。

 

保全については議論が進むことを願うとして、私は別のことを書きたい。

 

もう鰻は食べないぞ。そう心に誓った2018夏、であった。何故ならウナギは個体数が減っているようだし何が何でも鰻を食べたいほど鰻に執着はないからだ。

そしてある日私はへとへとになりながら帰宅する。今週もお疲れ様という気持ちで。その日の夕食は鰻だった。

 

ありがたい話だ。本当に。鰻は値段が高騰しているにも関わらず食卓に鰻が出るのだもの。それを愛情と言わずして何という。

しかし、素直に喜べない自分がいる。もう鰻は食べないと決めたからだ。

結果的には鰻を私は食べた。何故ならもう目の前の皿に盛り付けられた鰻は命を失い、調理され、つややかなタレを纏い、かば焼き状態だったからだ。私が今この鰻を食べなくてもこの鰻の失われた命は戻らない。それならば、おいしくいただくのみ。事実、久々に食べる鰻はおいしかった。身はほわほわでとろとろと口の中で崩れ、それを甘いタレでいただく。この触感は鰻以外にはなかなか再現できないものだ(と思う)。食べきった。食欲は最後まで湧かなかったけれど。

 

さりげなく、私はかぞくに言ってみる。「次からは鰻をやめない?」と。絶滅しそうだし他に栄養の付く食べ物を食べればいいじゃない、力うどんとかどう?「う」のつく食べ物だし。

却下された。

相手はよくわかんないことを言っていて、私はさらりと否定されたことにショックだったのと、何より「自分たちさえよければいい」という考えが透けて見えて、それは他人事じゃなくきっと私の中にもあるもので、だからショックだった。すごく、悲しかった。

 

そして私は、これを書いている今日も鰻を食べた。

日中、親戚がやってきて鰻を食べたいと言ったからだ。流石に鰻以外のメニューもあるだろうと思っていたら都合で鰻しか取り扱いがなく、私は今日も鰻を食べることになった。

悲しかった。もう食べないと思っていたものを食べていることが、こんなにも悲しいことなのかと思った。

「嫌い」「苦手」そういうものを嫌々食べているのとはまた違う感覚。

「食べたくない」「食べないと決めている」ものを食べる罪悪感。目の前のおいしいはずの料理に集中することができない状態。他の人はおいしいと言って食べている状態。私はおいしいと思えない状態。おいしいけれど、おいしいと思っていいのかわからない状態。すごく、苦しい。

結局最後まで食べることができず、他にあげた。その人はおいしそうに食べていた。

 

その後も親戚行事はあったのだけれど、私は一人その場を後にした。

電車に乗りながら考えていた。

今まで「宗教的」「思想的」に特定のものを食べない人たちが存在することは知っていて、それは個人の自由で尊重されるべきものだ、という考えだった。今も変わらない。その上で「食べてはいけないもの」を食べるということは、きっと私が想像している以上の何かがあるのだろうと思うことができた。

もしかしたら、そこまで深刻ではないのかもしれない。個人によっては宗教で禁じられていても肉を食べていたりするのかも。

 

食べたくない、ってあるのだな。それは我儘とはまた違う、個人の生き方につながることもあり。誰かの「食べたくない」を尊重できる人間になろう、とふと思った。

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これは、この夏のある日の文章。