ベランダの実験室

思考の記録です。

20180831

ちっくしょう。そう思って、少しめそめそ泣きながらこれを書いている。

自分が生きているのはそういう世界だ。自分はこれからも生きていかないといけないんだ。そう思って途方に暮れる。泣きたい。泣いている。やっていける気がしない。

きっと私が考えすぎで、何もかも悪く受け止めて、自分の中で過大解釈して、生きているからそうなるのだろう。でも、どうすることもできないじゃないか。誰か私を助けてよ、って、そう思った。

 

私は人づきあいに微妙なコンプレックスを持って生きている。心底仲が良い人を思い浮かべることができない。親友の意味が分からない。心行くままに、誰かと一緒にいることができない。誰かといたいと思うことができない。それは私と今でも付き合ってくれるわずかな人を貶めたいわけではなくて、私を好きでいてくれる人がとてもとてもありがたいけれど、それでも微妙に居心地の悪さを感じてしまうのだ、ということである。

「誰かといて、超楽しい」なんて私の中ではありえない。そう言ったらあなたは落ち込んでしまうのだろうか。違う。あなたは私にとってこんなにもありがたい存在なのに。これだけは言わせて。もっと仲良くなりたいのに、どうしたらいいかわからないんだ。

 

他者とうまく繋がれないこと。それが人間としてどこか機能不全というか、欠けているところがあるというか、直していかないといけないことなのではないか、と劣等感のようなものを感じてしまうこと(冷静に考えれば「ばっかやろう、好きに生きて何が悪い!!!」と思えるのだけれど、心が弱っている夜はダメだすごく落ち込む)。

他者に興味がないこと。面白いと思えることが少ない。他人の話に興味が湧かない。もっと違うことをあなたと話したい。例えば…人生についてとか。ヘクトパスカルについてとか。そんなこと言ったら馬鹿にするでしょう?真面目なんだね?とか言って。私は大まじめにこの世界が生きにくいと思っているのだけれど、あなたはどうなの。

 

こんなにへろへろになっているのに。

私は今日こんなことを上司に言われた。

「彼氏いるの?」と。(ちなみにその方は私に対して恋愛感情を持っているからそう言ったわけではなくて、単純に軽い質問で聞いたのだと思う)

 

このこと自体、それほど問題があるとは思っていない。(問題ではあるけれど、まあ、そんなの世の中だろう。)が、2つほど思ったことがあるので書いておく。

 

①愛する対象として「性」というカテゴリーで区切るのはもはやナンセンスであり男性性である「彼氏」と女性性である「彼女」でもって人の愛する対象を区切るのは、一種の暴力的行為である。もし私に彼氏ではなく彼女がいたらどうなるのだろう。性自認の問題は通常の「男」「女」に区切ることができない多様性と、一般的なカテゴリーから拒絶される人の苦しみがあるのだ、と思う。あなた、それをわかったうえであたしに聞いてんの?「彼氏いるの?」って。

もちろん、まだまだ議論が尽くされていない問題だ。私自身、もしかしたら普段誰かを傷つけているのかも。傷つけないように、これからも考えてはいきたいなと思っているのだけれど、取り急ぎ「彼氏いるの?」に「ああん?」と喧嘩腰になっている自分がいたので書いておく。

 

②喧嘩腰になった後で、瞬時に次は落ち込むことになった。彼氏、いるの?だって。はい?

私は恋愛を「高度な人間同士のコミュニケーション」だと考えている。実際私は(「恋愛」という意味で)人を好きになったことがないので自分にとって幻想めいたものなんだろうね。だけど人が人を愛するということは、まあ、多分すごい精神活動なのだろうなと思っている。それができる人を本当にすごいと思うし、一体どうやったらできるんだとも思っている。

というわけで「彼氏いるの?」という言葉を私なりに解釈すると「あなた、きちんと人間として人を愛し向き合うことができていますか?」になるのである。

 

怖い。一言で言えばこうなる。怖い。その質問が、心底怖い。

 

愛しているも何も、まともに人間と向き合ったことないのに。

ビート板でバタ足しかできない幼児に、バタフライやれって言っているようなもんだぞ(違うかもしれない)。

 

ということで、心をメタメタにされた(というか私が勝手にメタメタになっていた)わけだけれど、なんか怒りが静まり落ち込んだ心も治ってきたので寝ることにします。世界の馬鹿馬鹿と言いながら。

 

私は人を愛せる気がしないよ。全然この世界が好きじゃないよ。他人が憎くて、自分のことが嫌いだよ。それでもちっぽけな楽しみと面白みを糧に生きているよ。