ベランダの実験室

思考の記録です。

その海が見たい

私が学生時代不満だったことの1つに、どうしてこんなにも面白いのに集団になった途端つまらなくなるのだろう人間というものは、ということだった。なかなか偉そうな口っぷりである。

裏を返すと、集団の中にいる人間はつまらないと感じてしまうほど、1対1の人間関係に飢えていたのだろう私は、ってことでもある。それは今も変わっていない。


「面白さ」という言葉で言い表した「それ」を、私は人間の内に満ち満ちている「海」と考える。理由はない。単なるイメージだ。


海の色は人それぞれだ。海の大きさもそれぞれだ。深さも、どんな生き物が生息しているのか(あるいは生息していないのか)も様々だ。その海は、海を内包する人間を映し出す。穏やかそうな人でも、もしかしたら波が荒れ狂い海の色が漆黒かもしれない。あんなに怒りっぽい人でも、空は青々と冴え渡り、かもめがプワプワ言いながら空と海の境目を飛んでいるかも。ま、それは無いかも。


問題は、1個人に向き合うと分かってくる海の香りが、集団で集まった途端わからなくなることだ。というか、私の嗅覚が鈍いだけなのかも。

その人がなにを大切にしているのか、何が好きなのか、どんなことを経験してきたのか、これからどうなりたいのか、わからなくなる。私はそれが少し寂しい。もっとアピールすればいいのに(主に私に対して)。テレビとか音楽とか好きな人のこととか下ネタとか、そういうことよりよっぽど面白いのに。つまんない、と思ってた。それはそれでちょっと違うのだろうなと思うけど、真面目にそんなことを考えていて、私の交友関係はなんとも寂しい。それはさておき。


先日、一般的な休みの日に働くことになった。はじめてのことだったので、普段通りの服装で行ったら、思いのほか働く人たちはくだけた服装をして、そうかそれでいいのだ、と思った。

普段決まり切った服装での姿を見る分、個人個人の趣味や嗜好がにじみ出る服装の数々に、正直眩暈がした。情報量が多い。


スーツや制服が好きではない私だけれど、情報の量を抑制するという意味では、有りかもしれないなぁ…と思ってしまった。


休日に何を着るかも「海」であるわけだから、私はそれを歓迎するかと思ったが案外違う。海が見たいが、見たらどんな海なのか深く見てみたくなる。どんな成り立ちでできたのか、とか、私の海には生息していない生き物がいたら持って帰りたくなる。その作業はつかの間だとしても疲れるのだ。


結果無関心になってしまうので、私は人間に興味がないとなってしまう。

海が見たいけれど、海の持ち主のことはもしかしたらどうでもいいのかもしれない。それならば、私は他人に興味がないってことになるのだろう。他人の持ち物が気になるだけで。