ベランダの実験室

思考の記録です。

コミュニケーションとしての死

2カ月に1度くらい、「ったくここで死んでみようかしら」と思うことがある。まったくもって軽々しい「死」だ。絶対口にしたらいけない「死」だ。最悪の死だ。でも、死んでみたら、と思うことがある。

コミュニケーションとしての死だ。この気持ちをいっそ相手にぶちまけられたらどんなにいいのだろう。でも、それができない。どうしてもできない。勇気がない。上手に伝えることができない。だから死ぬんだ。…。論理として破綻している。馬鹿馬鹿しい。

そういう気分の時は歩くのがよろしい。特に夜に歩くのが最高だ。暗がりで人の顔も見えない。誰かのことなんて何も考えなくていい。夜に紛れ込ませればいい。夜の重たさが自然と私の思考の熱暴走を冷やしてくれる。

 

学生の頃は、周囲とうまくやっていけないことに一人考え込んでしまった。内に籠ることそのものが悪かったのだろうなぁ...と今なら思えるのだけど、今あの頃に戻っても上手くやれる気がしない。

社会に出たら、途端に「結婚」というワードが気になり始めた。誰にも何も言われていないのに、そういう風に考えるよう脳みそに組み込まれているみたい。多分それは、私がこれまで生きてきた中で堆積された「概念」なのだと思う。普段「こうあるべき」とか「こうしなければいけない」とか、誰かから要求されていることは気にしないようにしてきた。気にしたとしても、そんなものは「絶対的な」ものではなく、時代によっても住む場所によっても「変化する」ものだと思って生きてきた。

でも、心が弱っていると勝てないこともある。年齢と、性別と、立場と。何しろ「結婚」なんて考えたのは初めてだったから、少々戦い方がわかっていないようだ。ははは。

 

そうかぁ...私はそろそろ独りだと怪しまれる年齢になってしまったのかぁ...。ほんと馬鹿馬鹿しいなぁ。それより、桜が綺麗だねとか、ハンバーグが美味しいねとか、温かくなってきたね、とか。そういうもので自分を満たしたいのに。誰かとそういう話がしたいだけなのに。誰でもいいのに。

 

普段嫌いなものはなるべく視界に入れないようにしている。それが良いことなのかはわからないけれど、見る必要のないものは見ない。

だけど、ほんの少しだけそのフィルタリングから漏れてしまうテレビ番組があって、それをふと見ながら、案の定不快になって、それはこの番組がやっていることが「いじめ」だと思うからなのだけど、同じことを自分も無意識にやっていないか考えてしまった。特に発言だ。

誰かの生き方を馬鹿にする発言はしていないか。存在を否定することはしていないか。いくら気に食わない相手だからって、軽んじてはいないか。

そんなことを考えるのは、悪意もなくただ放り投げられた言葉で自分が傷ついたからだ。同じことを、私は相手にしたくない。傷つけてしまうのなら、私は一生喋らない方がいい。喋ってはいけないのだ。

 

そうやって、誰かの言葉を自分の体内で呪いに変換することはやめよう。バーカバーカって言ってやって、私は美味しいものを食べてさっさと寝よう。誰かのことなんて、知らない。