ベランダの実験室

思考の記録です。

一人でも文章

私は、自分の好きなものについて考えるのが好きだ。自分が好きなものについて、他の人が考えていることを読んだり聞いたりするのも好きだ。故に、ブログ漁りをはじめとするネットサーフィンやらTwitterやらが大好きだ。

今日もそうして好きなドラマをリアルタイムで観ながら、他の人が吐いた感想を読んでいく。どれも賛同できて「あーーーーわかるうううううう」となって、さて、虚しくなった。

誰でも批評家になれる時代だ。手軽に「感想」を発信することができる時代だ。私もそんな時代の恩恵をあずかり、こうしてインターネットの片隅でしょうもない文章を吐き出している。そのこと自体が悪いとは思わない。感想を書くのは楽しい。自分の感じたことを言葉にする作業は、発見もあるし手ごたえもあるし、きっと私にとっては暇潰しの1つであり、自然なことであり、習慣なのではないか。

 

でも、虚しい。

感想ってなんだ。誰かに読まれることを前提とした感想って面白いのか。いいねが必要なのか。スターが必要なのか。つまりは誰かの承認が感想には必要なのか。誰かから認められなければ素晴らしい感想ではないのか。感想って、なんだ。

早い話、「ああああ。わかるううううううう」の数が多ければ多いほうがいいな、と思っている自分がいる。インスタやTwitterでいう「いいね!」を欲していないか。たくさん「いいね!」が欲しいと思ってないか。思っている。いいね!って言われたい。いいね!って言われたら嬉しい。だって、現実世界で、私の話を聞いてくれる人いないんだもん(←あ、、、)

感想を言うこと、意見を言うことが「承認」とつながってしまっている。それは、あまり風通しのいい状態ではない気がする。

 

恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』の中で少女と少年はこんな会話をしていた。

世界に自分以外いなくても、ピアノ弾くかなぁ、と。

2人はピアノを弾くだろうね、と言った。

 

私は、世界から人間が消えても、言葉を吐き続けるだろうか。多分こうして気持ちを文章にはするだろうなぁ。そうでもしないと、この気持ちをどこにやっていいかわからないから。

そういう気持ちで、色々なことを拙くていいから言葉にできたら、と思った夜。

全然、面白いように言葉にできない。

世の中には、芸術的に面白くコンパクトに要点を得た感想を言える人がいるものなのだ。