ベランダの実験室

思考の記録です。

20171104 今日考えたこと

今日考えたこと。

 

人は余裕がなくなると不寛容になる。他人に対する配慮が無くなるということ。それは悪循環を生むということ。他人に配慮がない言葉に傷つき、毒が回り、今度は他者を攻撃する側に回るということ。それは、その連鎖は良くないよなぁと思う。伝えたい言葉を、適切な方法で発しないと逆効果になるということも考えた。どう考えても伝え方が悪いあまり印象が悪くなっている。それはとても損だ。

その人は、机をドンドンと叩きながら喋った。威圧的である。やめた方がいい。あとはお酒を飲んだ後の大事な話もやめた方がいい。余計なことまで喋ってしまうから。

 

人間というのは、とても興味深い生き物だな、と今日みたいなことがあると思う。

そういう私だって人間で。

他人の感情はわからない。他人がどういうルールで生きているかもわからない。何が地雷なのかもわからない。他人をゲームのキャラクターのように操作することはできない。それに染まってしまうと、リアルに生きる人がつくづく面倒に思えてしまって、末期だな私と思うものである。そういう自分の感情さえ思い通りにならない。

 

だから、どんな人間が目の前に現れたとしても大丈夫なように、私は強くなりたいと思うのだ。他人に屈服することなく、しかし誤りは潔く認められる人に。

 

ポジティブな感情はどうでもいいけれど、ネガティブな感情、例えば怒りや悲しみ、苦しみなどが全面に押し出された時、もしかしたら人間は面白いのかもしれない。ああ、この人生きているんだなと思えるというか。あ、感情あるんだ、みたいな。

私は怒られるのも泣かれるのも超超超苦手で、そういうものをいかに発生させないかに全力注いできた人間だから、免疫力が著しくない。が、面白いのかもしれない、と今日初めて思った。これはある種の防衛本能かもしれない。遠ざけて考えないと、私は人の怒りや悲しみ苦しみに耐えられないのだ。「観察対象」とすることで、私はいくつもの耐えきれない物事をやり過ごしてきたのかも。

 

 

別に今日に限った話ではないけれど、ああ、人間であることが面倒だな、とここ最近考えている。

死にたいでもない。

消えたいでもない。

あんな人間消えろでもない。

自分が人間としてこの先も社会的に生きていくのがとてもとても億劫に思えるということである。

 

例えば年齢とか。例えば結婚とか。例えば家族とか。例えば孤独とか。例えば労働とか。なんでこんなに面倒なことが目の前に山積みになっているんだい?何故私はそれを「面倒だ」と思うようになったのだい?どうすればこのモヤモヤとして気持ちは消えるの?

 

私が死なないのは、いくつか理由があるけれど、私が死んだ後の世界がどうなるのか見れそうにないことは大きな理由の1つだ。自分の死を以て、その人の反応を見てみたい。はははといつも笑顔でいる私の胸中にはこんな呪いの言葉があったのだと、私の死後気がついて、思いきり後悔すればいい、あるいは後悔しない人間だったのならそれはそれでせいせいする。その人に対する感情の何もかもを諦められる。でも、死んだら反応なんて見れないと思うので死なない。

 

 

生きるって面倒だ。本当に、面倒。

さて、私はどう生きるのか。結局はそこに行き着く。

 

とりあえず、言いたいことが生まれたときに相手に伝わるように、話し方は気をつけよう。今日の相手の言い分は、「こいつ頭くるなぁ~~~~~~」という感情しか想起させなかったので工夫した方がいいよと相手に言いたい。