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ベランダの実験室

思考の記録です。

「もしかして喋らなくていいんじゃないか」という気付き

 私は、他人に興味がない。他人に興味がある、というのがいまいちどういう感覚はわかっていない。他人に興味があるって、どういうことなのでしょう?

 私は一方で他人に興味がある。超矛盾しているけれど、なんだろうな、単純に知識として、経験として、工夫のパターンとして「知りたい」って感じがする。その人の考え、その人の世界観、その人の好きなもの嫌いなもの。それらはすべて私にとっての「アイデア」であり「発見」であり、自分の暮らしに取り入れるかもしれない情報であり工夫である。これは他人に興味があるって言っていいのかな。私がイメージしている「他人に興味がある」というのは「その人個人が気になる」ということに近いのだけど。 

 なんでこんな話をしているかというと、「私という人間はよく一人でいる」ということをずーっと考えるからだ。私は滅多に人と遊びに行かないし、そもそも遊びに誘える人間は片手の指で数える程度かもしれない。「LINEのメッセージがゼロ」なんて日が当たり前だし、一体他の人はどういう暮らしをしているのだろう?と心底気になる。みんな、そんなに誰かと一緒にいたいのだろうか。それが楽しいのだろうか。

 そうやって、自分と他者との付き合い方をずっと考えてきた。失敗らしい失敗もせず、かといって誰かと強烈な喜びを分かち合ったこともない。どうやったら上手く他者と付き合うことができるのだろう。私は他者とどうなりたいのだろう。仲良くなりたいのか、休日も思いっきり遊びに行きたいのだろうか、LINEのやりとりを頻繁にしたいのだろうか。何を求めているの私、ということを拗らせて、私という人間はよくわからなくなっている。

 

 最近、あることに気がついた。もしかして、喋らなくていい?

 喋ろう、どうにか話題を提供しなければ。他人との雑談が苦手な私にとって「喋らなければ」というのはもはや強迫観念と化していた。頭を必死に回して、その場その場の空気を乱さない言葉を喋らなければ、という思いが益々私と他者を遠ざける。もっと他に使えるだろう一日のHPの大部分を持っていかれる。

 ふと、私は気がつく。どちらかというと人は喋りたがり屋ではないか?と。私という人間が何を考えているのか、ということには実は興味がなくて、楽しくおしゃべりしたい人が多いのではないか?ということに。私、何で必死に喋ろうとしていたのだろう。

 

 理解されたい。他者からの承認がなければ自分を保つことができない。そういう感情は、学校空間から離れると弱くなってきた。私は私。私には好きなものがあって、気に入っているものがあって、自分の機嫌が良くなる方法がわかってきたから。他者から理解されなくても、否定されてもそれは仕方がないよね。もちろん理解されようと努力することは必要だけどさ。そういう考えになって、必ずしも自分をアピールする必要が無くなってきた。ということは、頑張って喋らなくてもいいんじゃないかな。むしろ、聴き上手になったほうが、需要と供給も上手くいくんじゃないかな。話したい人とそんなに話さなくていい人(私)の関係性。

 

 喋らなくていいかな、もう。

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