ベランダの実験室

思考の記録です。

20160630 2人の自分

 ただ言葉を綴りたくて、あえてダイアリーを設けることにした。
 ブログをいくつも細分化するということは身体でなんとか形を保っている1人の人間をバラバラにするような気がして、あまり好きではないのだけど。
 誰かが見ようと思えば見ることができるネット上で書くことは、机の上で黒い手帳に向かい内面を綴ることと意味合いが違うと思う。私はこれを誰かにみてほしいとか思っているわけではないけれど、インターネットの方が「私が」見返すときに見やすい気がするのだ。私は普段紙媒体で備忘録のようなものをつけているけど、それを見返すことはほとんどない。
 ①自分の内面を書くこと と ②外的なものを記述すること。②については、また別にまとまったら書こうと思う。


 さて。書いている日は7/1だけど、昨日6/30のことを書こう。
 
 悲しい、とも
 悔しい、とも
 みじめだ、とも
 ムカつく、とも
 大したことじゃないかも、とも思うことがあった。身から出た錆。自業自得なことだった。

 「あなたに怒っているんです」と言われた。
 その人が怒ることにちゃんとした理由があった。相手方を怒らせているだろう、とわかっていた。で、案の定言われてしまった。その人が「怒る人」というのもわかっていた。日常的に不快なことを不快だと態度で示す人ではなく、思考の結果「怒る」という手段を時として用いる人だとも思っていた。世の中には同じことをされても怒らない人も、あるいはもっと前の段階で怒る人もいる。
 怒られたことにショック?なのだろうか。その通りな気もするけど、違うようにも思う。怒られた側なのは私なのに「怒らなくても良かったのにな〜」「私を動かすには怒るという手段は全く意味がないのにな」と、少し不満だった。私は怒られるとダメなのです。怒られるのが嫌いだし、怒らせた自分が嫌いになるし。怒らせたらどうすればいいかわからなくなる。

 で。ここから。以上のを踏まえて、私が時々言われていることとつなげてみよう。
 私は「考えすぎる」と言われる。こうして言われる場合、多くはネガティブな文脈で用いる。(とすぐに分析や考察をしてしまうことそのものが「考えすぎ」という特性だろう)考えずにさっさと行動しろよ!暗にそう伝えたいのだと思う。
 私は自分が行っていることや自分の周りの物事にきちんと自分なりの解釈をしたいだけなのに。うーん。行動につながらない、のは事実だもんそれは考えすぎだ。
 
 自己嫌悪やら対人恐怖やら、なんやら、余計なことを考える。それは「周り」が私にそう言うのではない。私の中の私が周りの人々に化けて語るのだ。だから私の中には2人の私がいる。抑圧される私と抑圧する私。される側の私が弱気になったとき「抑圧する私」に登場をお願いする。行動しなくていい理由を外界に、あるいは内面的な問題に求める。

 何が言いたいのかというと、抑圧する私に退場をお願いしたい。もう。考えたくない。考えることはいいことだと思っていた。けど、違うのかな。面倒なことなのかな。生産的じゃないことなのかな。と、考えている時点で私は考えすぎ。さっさとやりなさい、ってことだろう。苦痛だ。気持ちが悪くなる。ストレス。何も感じたくない。嫌なことなんてない無敵な人になりたい。世界から私以外の人が消えてほしい。そうすれば考えなくて済む。私の中に誰かを作らないで済む。考えたくない。解放されたい。
 
 そう、考えることは牢獄の檻なのかもね。