ベランダの実験室

思考の記録です。

20161228 飲み会日記

 私は、飲み会が苦手である。

 

 滅多に行かない「飲み会」の場に、それでも行くとき、私はよく好きな本の一場面を思い浮かべる。私の中で好きな小説を挙げるとして、10本の指の中には入るであろう『スロウハイツの神様』(辻村深月作)の1シーンだ。

 狩野という青年が赤羽環という親友との出会いを回想する場面。狩野は環とは大学生の時、合コン(?)で出会った。男性側、女性側双方が自己紹介をしていく、まだまだ空気が硬い飲み会の序盤での出来事。環は大学生をしていながら劇団の脚本なども書いていたのだが、友人にそのことを暴露され(というか友人はちょっとした自己紹介のつもりで、些細な会話である)環がちょっと怒るところ。

「恥ずかしいから。もうそれ以上言わないで。すごく恥ずかしいから。」

  環はそう言う。狩野はそれを見て

 その理由が恥ずかしいからでないことだけは、彼女が何度も同じ言葉を繰り返すその声から伝わってきた。焦りより、もっと深い場所から吐き出されているような声。どうやらそれは、この話題になった不運を嘆くというよりは、ここに今自分が座っていること、今日ここに来たことそのものへの後悔と直結しているようだった。私にはそれがあるのに、どうしてここに来てしまったのか、と。

 

 私は、このフレーズが大好きである。

 私には環にとっての「脚本」や、狩野にとっての「漫画」(狩野は漫画家志望なのだ)のような強い存在はないけれど、それでも好きである。

 飲み会に行く度に、私はこの場面を思い浮かべる。私はどうしてここに来てしまったのだろう、と。そう思ってしまう時点で飲み会というものを諦めているし、そんなことを始まる前から思っていては楽しめるものも楽しめないことは承知しているけれど、それでも。

 

 飲み会は苦手だ。

 

 その日参加した飲み会は、バイト仲間のなかでも親しい人たちの飲み会だった。もっと大人数で、大して親しくない人もいる飲み会は、最初からお断りしていた。親しいのだから楽しめるはずなのに。その飲み会も楽しくなかったとは言わないが、楽しいとも言えない、なんとも複雑な感情である。

 その飲み会に参加するに際して、私はささやかな目標を立てていた。

 1つ、喋らない。2つ、お酒を楽しむ。

 喋らないってどういうことなのか。私は喋るのが苦手なくせに、喋らないと!!!という強迫観念から意味もなく喋ってしまう傾向がある。それ自体が他人の気分を害している、ということは無さそうなのだが、私自身がとても疲弊するのだ。考えて、空気を感じて、とにかく気の利いたことを喋らないとと思ってしまう。その頑張りは良いと思うが、空回りしていないか。別に喋らなくてもいいのではないか。そういうことが苦手な人に任せるべきではないか。考えた結果、試験的に「喋らない」という目標を立ててみたのだ。

 お酒を楽しむことに関しては、私は普段まったくお酒を飲まないので、こういう場で摂れるだけ摂っておこうぐらいの精神である。安い酒でも構わない。色んな酒を飲んでおこう、という目標である。

 目標の達成度は、60%ぐらいであろうか。今回の飲み会は「とにかく飲むぞ~」という感じではなく、オトナの余裕でしっとりと飲む、みたいな空気ができていたからそれほど飲むことができなかった。「喋らない」については、微妙なところである。料理をたくさん食べていたのでその分喋らなくて済んだかなという感じだろうか。

 

 飲んだお酒は、梅酒やらカシス系やら果実酒が多めである。といっても、5杯飲んだか飲んでないかぐらいだろうか。お酒の種類がよくわからないので、こういう場の時はメニューを見ずに「梅酒のロックで」と言うことにしている。梅酒は大体ある。

 

 お店はとても綺麗で落ち着いている雰囲気だった。料理がおいしくて、しかもボリューム満タンで、飲み会なのにお腹がいっぱいになってしまった。大概は物足りない気持ちで帰るのに。珍しい。同じテーブルの人が小食だったのもあるかもしれない。私はよく食べたから。初めてトマト鍋なるものを食べたけれど、案外おいしかったよかった。トマトの旬は夏なのだから、夏食べた方がいいのでは、そもそも鍋にトマトを入れられるのは、大量生産・大量消費社会で、技術の進歩で旬などお構いなしに食べられるようになったからでは、いやはやそれは興味深いことだぞ、とか考えていた。とにかくおいしかった。

 

 以上で飲み会日記は終了である。

 苦手な飲み会も、こうして書いていると案外面白いのかもしれないと、思った。