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祝福の日々

私-好きなこと=ブログ、です。

20161201 私の父が好きな言葉を私は嫌い

つぶやき

 修羅場でした。

 夜にラブレターは書かない方がいい、という言葉は、私は真理だと思っているけれど、ラブレターに限らず誰かにきちんと思いを伝えるのは夜じゃない方が良い気がしている。頭の中の脳みそが疲れきってる中で、あんなことはするべきではなかった。

 

 ということで、私は取り越し苦労をする人間なので、少し割り引いて考えればいいけれど、端的にいうと家族の崩壊が露呈しました。元々わかってたことだけれど、とうとうそれが明らかになってしまった。こういうことは書かない方がいいかしら?でも、書く。


 私は、対人となると、大概自分を殺します。自分が多少不都合でも、それで物事が収まるならば、私は遠慮なく私を抑えつけます。そんな私が、昨日は父に言いたいことを言いまくりました。相手はシラフではなかったし、会話など成立しなかったんですけど、夜だから(笑)私も言っちゃったんですね。恥ずかしいけど。


 私は父という人間が嫌いな人間です。彼の考え方は全体的に認められません。「お前が世の中知らないだけだ」とか言うのですが、相手がまだ知らないことを盾に己の論理の正当性を認めさせるやり方って反則だと思ってます。それは私が知ってから判断するべきことなので。


 父は昨日の会話でも、普段の会話でもよく「自己責任」という言葉を口にしていました。私たちに対する教育は「自己責任」の名の下で行われていたようです。つまり、大体が放任主義でした。両親は私の行為には干渉してこない。私の行為に口を挟まない。そのおかげで私はここまでのびのび育ってきました。

 今、私は人生の1つの転機を迎えています。正直、主体的にどちらに行きたいと思える意思はとうに無く、なんとなく選んだ方に向かって、進めるように頑張らなければいけません。父はそんな私の状況に対しても「自己責任」だという。お前が頑張らなかったからこうなってるんだ。これからもお前自身が決めてその行動に責任を持ちなさい、と。


 私がこうなったのは私のせいなので、それを他人に押し付ける気は毛頭ありません。が、この人の「自己責任」とは、私と関わりたくない、私の人生を負いたくない、迷惑被りたくない、そんなものなのだなぁ、と私は思いました。つまり、私のために言ってることではない。彼の人生観そのものなのだと。


 私は、自己責任論が跋扈する世の中である限り、生きづらい人が増え、社会は荒むと思っています。誰かが言ってたような気がするけれど、自己責任論が成り立つのは、環境も人も平等な世界だけなのでは?と。人は環境によって影響を受けており、それは選べるもの選べないものがあると思います。能力も同じです。

 自己責任論を主張する人は、単純に自分が人に優しくしたくない理由を正当化してるだけでしょう?父は、私という人間に興味がなく、人生に関わりたくないのです。

 

 自分の人生を受け止めることは必要です。自分の人生を生きることは、どんな人でもその人が負うべきことだと思いますが、全部その人で頑張りなさい、ダメになった場合はあなたが頑張らなかったから、という論を飲み込むなら、自分の人生を引き受けようと生きているのにうまくいかない人は死ぬしかないのでしょうか?


 

 と、ここまで書いて、別に私は私という人間を正当化したいわけじゃないのです、ということを書いておく。私のことを真剣に思ってくれない人の意見は、あんまり聞く気にならないなぁ、それだけです。と言いつつ、生かしてもらってることも事実。そこには感謝しなければなりません。



 あとは、やはり人間、お金がないと思うと心が荒みますね。本当は切り詰めるところもあるだろうに、見栄とか利便性とかに負けちゃうんですよね。お金は必要です、間違いなく。そこに囚われず、うまい付き合い方をするべきなのです。父はお金にも実の両親にも囚われている。自ら囚われようとしているのです。



 強く生きねば。

 そう思った次第。