ベランダの実験室

思考の記録です。

20161019 ラベル付け及び話すこと

 私は生きながら、「治野って○○だよね」という言葉を探している。

 私は何者なのか。人からどう思われているのか、どういう人間に見えているのか、知りたいと思いながら生きてきた。「私=○○」の「○○」がとっても欲しかった。

 

 と、同時に、私は他人に対して「あなたは○○だよね」という言葉をかけることができない。全然できない。無理である。言葉を探そうとすると、私の中でその人を構成する要素がバラバラになってしまう。要素自体はきちんと認識することができる。

あの人は視野が広い。

あの人は働き者。

あの人はちょっとだらしがない。

あの人は勉強家。

あの人はネジが一本外れている超人。

 なんだ、ちゃんと挙げることができるじゃん、と思うけれど、私はそれをその相手には絶対言わないし、なんか違う気がするのだった。

 

 その考えの根幹にあるのは、自分の意見が正しいわけがない、という感覚だ。私が見ている世界は所詮私が見ている世界で、あなたが見ている世界ではない。私にとってのあなたはAだけど、違う人が見たらBだし、あなた自身は自分のことをCと思っているでしょう?そんな考えを持ってしまうと、自分の意見に自信がなくなる。自信がなくなるというか、意味がないような気分になる。そんなことはないはずなのだけど。それに、私は気分屋だから朝と夕で思っていることも全然違うし、そうであるのに言葉にするのは無責任な気もするのだった。

 

 で、私はできないから、他人にそういう言葉をかけてあげられる人を尊敬する。すごいなぁと思う。人のことを見て、きちんとそれを指摘してあげられる人。

 私は聞かれたことに対して話すのは得意だけど、人に聞くのは苦手だなぁと思う。何を聞いたらいいかわからない。だって興味がないんだもん。そうやって、人に話しかけることができる人、自分のことではなく相手のことを知ろうとする人はすごい。

 

 と、ふと同僚の子と話ながら思いました。だってその子はどんどん質問してくるんだもん。なんでそんなに私に話しかけるのだろう、それって楽しいのかなとか思いながら会話をしていたけれど。私は誰かに話しかけたいことなどないのにな。