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祝福の日々

私-好きなこと=ブログ、です。

20160923 波紋

 

 それは、波紋、なのだと思った。

 私は、湖に石を投げたくないのだ。だってそのままでも十分にきれいなのだから。

 

長年立ちふさがる透明な壁

 長年抱いていたやりづらさのようなものは一体何なのか。

 うまく言葉にできていなくて、単純に、「人が嫌い」とか「人見知りなのです」とか「対人恐怖症なんです」とかそういう言葉で表していた。けれど、最近しっくりくる言葉が浮かんだのだった。そう、湖に私は石を投げたくない。そうなのかもしれない、と。

 透明な壁。

 それは具体的に言えば、「他人と関わることを意図的に避ける」ということだ。関わるというよりは「働きかける」といった方が正確かもしれない。私は他人に働きかけるのが、嫌いだ。

 

 もっと具体的に言おう。

・自分のわからないことを聞くのが苦手(単純にプライドが高いだけって気もするが、興味がわいたことは聞く)

・電話が苦手 メールはまだマシだけど本当は嫌だ LINEはすぐに送らないとメッセージが腐るみたいに鮮度が落ちて返信できなくなる 自分から連絡するのはためらわれる

・大義名分がないと人に話しかけられない 理由があっても話しかけるのが億劫

・滅多に誰かを遊びに誘わない

・基本単独プレー 自分で発見、自分で解決

 

 自分から人と関わるのをためらうばかりに、実は色々大変だった。

 学校なんかでグループを決めるときに出遅れて余りかける。

 慣れているバイトのはずなのに、欠勤の連絡をしたくないばかりに無理して出勤する。

 家族にすら自然と頼みごとができない。

 人脈皆無で情報難民に陥る(特に学業)。

 困っていることを、困っていると言えないばかりにどんどん悪化させる。

 

 あの人に、話しかけよう。聞こう。お願いしよう。相談しよう。助けてって言おう。困ってるって泣きつこう。遊びに行かない?って聞いてみようか。そう思ったときに、見えない壁に、ごんっ、とぶつかるような、もしくは、後ろから誰かに引っ張られているような、感覚。私は途端にフリーズしてしまい、結局自分でなんとかするのだ。なんとかしてきてしまったのだ。それが「しっかりしているね」とか「真面目だね」とかそういう言葉なんだと思う。で、今、宙ぶらりんの状態だ。

 

澄んだ湖でありたい

 イメージは、音がしない湖。水の色は澄んでいるけれど湖底まではわからない。黒々とした水面。その湖は私であり、他者であり、世界なのだと思うけれど、私は、そのままでいいと思っている。現状の停滞を望んでいるというよりは、自分から積極的に湖に介入したくないという感じ。変化しないものなんてありえないと思っているから。でも、石を投げるなんて無粋だ。波紋は忌むべき対象。静かなままで過ごさせてくれないか?と私は懸命に願っている。

 

壁の根本にあるのはなんなのか?

 どうしてこんな風な処世術を覚えてしまったのだろう?何が私の根源なのか。考えてみたい。

 

 私は、特段問題がある子どもではなかったけれど、特別仲の良い子ってのもいなかったような気がする。しっかりもの、とよく言われていた。両親の不和もない。いたって普通の子ども。

 はっきりと自覚したのは小学3年生の頃だけども、私は人が怒ったり不快な表情をするのが心底苦手だ。自分のせいではないことは重々承知で、しかし自分にそれを回避する術はあるだろう?と毎回気を使うようになった。私以外の人間が一番機嫌よくいるために私がやるべきこと。当時の私は、多分「優等生でいること」以外思いつかなかったんだろう。成績優秀で、先生の手伝いをよくして、積極的に学級を引っ張り、アイデアを出す子ども。誰一人、私のことを悪く言う人はいなかった。

 

 誰かに介入しようなんて、思ったこともなかった。

 誰かを人間的に好きになることもなかった。みんな好きだし、みんな嫌いだった。ただ嵐が過ぎるように、ひたすら待てばいいと思った。だから自分で嵐の元になるかもしれないものを生み出そうとは思わないでしょう?

 人間的に、罵声を浴びせられたり馬鹿にされたり怒鳴られたり明確に嫌われた態度をとられることもなければ、誰かに好意を寄せられたり放課後にマックに寄ったり「親友だね」という言葉を信じたり、そういう人生を歩んではこなかった。良くも悪くも、私は対人に関しては何もしてこなかった人間だった。

 

 根源といえばそれぐらいしか思い浮かばない。

 

じゃあ、あなたはどうしたいのですか?

 あともう1つ。

 波紋を生み出したくないからか知らないが、人を判断することも苦手だ。判断?というのかな、評価といった方がいいかもしれない。

 自分と似たような感性以外は実は認めていないんじゃないか?と思うけれども、それはさておき、例えば誰かが書いた文章(ブログなんかをイメージしてもらえれば)を読んでいても、私が惹かれるのは「面白いと思ったか」「思わなかったか」であり、好きな文章に対しては愛を語れるけれど、それ以外は大して興味がわかない。だから自分の考えが生じ得ない。何も考えが浮かばない。ただ文章が脳内を素通りしていくだけ。そういうことを感じるのは、例えば炎上したニュースとかなんだけど、どうしていちいちつっかかるのか私にはよくわからないことのなのだった。この部分がおかしいとか、不適切だとか、そういう突っ込みも浮かびようがない。

 いくら後ろ向きだろうが、前向きだろうが、自家中毒に陥っていようが、意識高い発言をしていようが、それ以上の感想を挟みえない。面白いと思っていないから。これって、思えば、傲慢というかひどい考え方のような気がしているのだけども、まあいいや。

 でも、1つだけ。それでも、私がいつも気を付けているのは、「結局何が言いたくて何をしたいのか」ってことだけなのだ。それだけ考えて文章を読んでいる。その内容はどうでもいい。その文章が書かれることはその人にとってどういう意味があるのかな?ってことだけは、無意識に考えていることかもしれない。

 

 だとすれば、私がこの文を書く意味は何だろう?私はこれを綴りながら、どこを向いているのだろう?

 

私の、向きたい方向

 1つ。他人と関わりたい、これからは他人に積極的に働きかけながら生きていきたい!とは思っていない。残念ながら。私の人間的理想像は、確かに他人と関わりながら行動することでエネルギーを発電していき行動していくタイプの人間なんだけど、あまりに遠い理想像を掲げることは、必ずしも自分にとって良いことではないことも知っている。私は私の在り方が案外気に入っているから、それを社会で生きていくうえでうまく適合させていけたらいいなぁ、というのが本音。ただ、「他人に働きかけるのがためらわれる」というのは、他の人と関わっていく中でなかなか不都合を生じさせることも多い。まずは事前にそういう事態を招かないようにするのがベストだけども、ほどよく人と付き合っていく力も養った方がいい気がしている。難しい。

 

 どうしたらいいんでしょう?

 自分が何かして、相手がそれに対して反応して。

 そういうことを想像しただけで、げんなりしてしまうんです。それなら何もしないほうがいいと思ってしまうんです。困りものですね。