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祝福の日々

私-好きなこと=ブログ、です。

20160828 Facebookのアカウントを消した瞬間の話

大学に入ってFacebookを始めた。

そして3年後の今、私はFacebookのアカウントを消すことにした。

 

 私とFacebook

 Facebookは多くの人に比較的知られているツールだと思う。SNSの1つで、自分の名前を実名登録する点や自分の現状を物理的に会うことが難しい知り合いにも報告することができる便利なツールだと思っている。

 だからこそ思う。私が今Facebookのアカウントを消す、というのは時期尚早ではないかと。もっと年を重ねて、会いたいと思う人が出てくるかもしれない。そんな時に連絡する手段を持てないというのは、大変なのではないか?と。8割ぐらいの私が「アカウントなんて消さないで、そのまま触らなければいいじゃん」と思っている。多分正しいと思う。でも、私はもう無理だった。無理な気がしたから、アカウントを消したのだった。

 

私がFacebookを始めた理由

 私がFacebookを始めた理由は必要に迫られてのことだった。大学に入ってある活動に携わるようになった。そこには大学3年まで関わることになった。その連絡手段としてFacebookが1つ重要なツールであったのだ。文書ファイルのアップだったり写真のアップだったり、グループを作りその中で作業をしなければならなかった。

 

Facebookと友達と呪い

 活動を通して様々な人と「友達」になった。

 「友達」。

 この言葉にどれだけ翻弄されればいいのだろう。今になってもつくづく思う。

 Facebookの「友達」は多くが友だちではなかった。知り合いだった。私は「友達」としての関係から友だちになろうとは悲しいかな、思うことはあまりなかった。「友達」のままだった。

 多くの「友達」によってもたらされる幸せそうな情報。それらはただただ自分が自分に行う攻撃の材料でしかならなかった。「○○ちゃんは恋人とディズニーランドに行ったんだって」「○○は今海外留学中らしいよ」「○○は地道にサークル活動を頑張っているみたい」他人の幸せを、他人の充実を呪わないといけないなんて、悲しい。そんな自分が悲しいし、きっと今私が抱いている感情は、生身の人間へ向けられるだろうなと思った。今の私はこのツールは手に負えない。そう思った。

 

 それにしても、そこから自分を磨くというのが妥当なあり方だと思う。つまりくよくよ落ち込んでいないで、他人の充実っぷりが羨ましいなら自分で努力してそれを手に入れろよ、と。至極もっともだと思う。それができず落ち込んだ挙句にアカウントを辞めるのだから、私のクズっぷりは大したものな気がする。

 

 まあ、でも疲れちゃったんだな。ほんと。エネルギーを吸い取られるくせに、定期的に見ることはやめられなかったんだもん。どんどん落ち込んで、もう立てないぐらいになっちゃったんだったら、やめるしかないでしょう?

 

Facebook(のアカウント)を消したとき

 こんな事情があり、しかし最後の後押しになったのは今まで関わっていた活動をきっぱりやめたことでした。もう関わらない。そう決めたとき、初めて必要となっていたFacebookの存在意義もなくなりました。かっこつけて言うならば「過去を捨てたいな」を思ったし。

 ネットで調べるとFacebookのアカウントを「消す」ということは2つあるみたいだ。1つは一時的にアカウントを停止すること。もう1つは完全にアカウントを消すことだ。一時的に停止しても情報は残っているので再開したいときはこちらの方がいいと思う。一回消してしまうともう復活することはできないっぽい。詳しくはいくらでも情報があるので調べてくださいまし。

 まあ、後先考えない私らしい行動と言えばそれまでだが、もうFacebookはできない、やらない、という覚悟がないとアカウントを消すことは難しいのかもしれない。わからないけれど。

 

 現時点での私の関心事はもっと別のところにあって、Facebookのアカウントを消したときに、真面目に「社会的に死ぬってこういうことなのかもな」と思ったことでした。

 

社会的に死ぬこと

 大げさなんですけども。私が一般的に「社会的に死ぬ」ということでイメージしてるのは、それなりに社会的に知られていた人が何か問題を起こしたりして袋叩きにあって、その権威性みたいなものを喪失するようなことをイメージしています。だから、私の場合は厳密に言えば違う?かもしれない。でも「社会的に死ぬ」という言葉以外しっくりくるものが見つからない。

 人は、社会的な生き物だと思う。1人で生きていくことはできないから、どんなに孤独な人でも何かしら間接的にでも人と関わる気がしている。それとは別に思うのが、人は人の中でアイデンティティを形成していくのだろうな、ということだ。

 私は真面目である。それは人と比較して初めてわかる特質だ。そして、相対的なものだ。個人的な例で言うと、私は高校までの学校生活では「真面目」だったけど、大学以降は「真面目じゃない」生活をしてきた。あるいは、かつての部活仲間で考えるとどう考えても私は勝てない「真面目」くんがいる。彼の前では私は絶対真面目じゃない。その時々に応じて、人は全然変わった生き物になる。

 人と人のネットワークの中で私が形成されるとしたら。

 人と人のネットワークから外れれば私も変わるのだろうな、と思っている。そのネットワークは色々あるけれど、多分Facebookはネットワークが可視化されたツールだろうな、と。

 

 今後もつながれるかもしれないけれど、Facebookのアカウントを消したことで、私はまるで網を断ち切ったように思えたのだった。いや逆かな、断ち切りたいと思ったからアカウントを消したのだった。

 

 退会のボタンを押す瞬間、鳥肌がたった。久々の感覚。重たくて、とりかえしのつかないことをしようとしているのではという感覚。蜘蛛の糸に引っかかっている蝶が自力で網から脱しようとしている「解放」の表れか、あるいは封印のお札がベタベタと張られたパンドラの箱から解放される化物なのか、私の感覚としてはどちらかというと後者なのだけど。人の目があるから自分を律することもできる。私は、どうなってしまうのだろう。

 

 最後に、私が好きな歌詞の一節を引用しよう。

 これからの生活を祝福したい意味も込めて。

 

あぁあ 気がつけばあんなちっぽけな物でつながってたんだ

あぁあ 手ぶらで歩いてみりゃ 楽かもしんないな

 

胸を張って歩けよ 前を見て歩けよ

希望の光なんてなくたっていいじゃないか

 

 ―チャットモンチー 「シャングリラ」―