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ベランダの実験室

思考の記録です。

20160825 そもそも世の中は虚構なのだと思った―映画『FAKE』を見て―

 この映画を知って、その翌日には見に行った。

 我ながら、行動が早い。今回は自分のことを褒めてもいい気がする。つまりだ。

 

 この映画を見に行った私、よくやった。

 

 

 森達也さんのドキュメンタリー映画を見に行った。ドキュメンタリーなのだから「何か」を撮った映画だ。この映画の題材はあの「佐村河内守」さんだった。以下、映画のホームぺージ(http://www.fakemovie.jp/)のイントロダクションの文を引用させていただく。

『A』『A2』以来実に15年ぶりの森達也監督作。佐村河内守氏の自宅でカメラを廻し、その素顔に迫る。取材の申し込みに来るメディア関係者たち、ことの 真偽を取材に来る外国人ジャーナリスト…。市場原理によってメディアは社会の合わせ鏡となる。ならばこの「ゴーストライター騒動」は、社会全体が安易な二 極化を求めていることの徴候と見ることもできる。 はたして何が本当なのか? 誰が、誰を騙しているのか?
映画は、この社会に瀰漫する時代の病をあぶりだしながら、衝撃のラストへとなだれ込む。

 こんな感じの映画です。でも、ぶっちゃけて言うと「ゴーストライダー騒動」の真相とかそういうものが本質なわけじゃないと私は思っているし、多くの観客も同じような感覚を抱く気がする。被写体が「佐村河内守」さんなだけであり、彼を撮ることで彼の周りにあるいろんなものを同時にフィルムに収めようとした。それだけでなく映画の構成全体を通して「何か」を提示しようとした、そういうエンタメ作品です。素晴らしい映画だと思いました。

 

 以下私が興味深いと感じたところを挙げていきます。映画の中で登場する話については挙げちゃいます。オチ?というかラストのネタは言わないでおきます。いわゆる「真相」なのかなそれが。

 

「生身の人間」という認識の喪失

 私自身は、ゴーストライター騒動についてはニュースで軽く知っている程度の人間です。少なくとも誰が関わっていて何が問題で、がなんとなくわかっている、それぐらいの認識。

 まず、この映画を見て最初の方に思ったこと。それは当たり前のことながら「佐村河内守」さんという人物は生きている人物だということ。当たり前ですね。生きているってことは住むところがあって、感情があって、身体があって、食べるものがあって、好き嫌いがあって、家族がいて。私も含めそこらへんにいる人とほとんど変わらない「人間」という事実。私が愕然としたのは、その当たり前の事実がメディアなんかを通して間接的になっていけばいくほど意識から欠落していく、ということでした。

 具体的に言うと私は、薄暗い部屋の中で彼がぼんやりとテレビを見ているシーンを見た時点で、ダメでした。そう、彼は自分が色々と取り上げられていたニュースなりワイドショーなりバラエティなり、なんでも見ることができたわけです。私もそうしてきたように。いやいや、無理だと思いました。真相がどうであれ私なら絶対そのような状況には耐えられない。外に出歩けないしテレビなんて見れないし。

 目の前に本人がいたらここまで言うだろうか?やるだろうか?という仕打ちを、メディアの中では平気でできる。私も世間話として口に出せてしまう。それってどうして?それは本人が目の前にいないからです。リアリティがないからです。「間接的」というか同じ空間を介さないということの恐ろしさをなんとなく感じました。

 

 ということは、私が今やっていることも恐ろしいことです。彼を馬鹿にするつもりは一切なく、そもそも私は事の真相なんてわかりっこない、と思っている。世間一般の騒動に対する理解はある意味正しく、間違っていることなのだから、「そういうものなのね、でも絶対違うこともあるよね」というスタンスで情報に接するしかない。なのだけど実際に生きている人のことについて言葉を綴る以上、語るということは傷つける行為なんだと思うんです。そうまでしても、私はこの映画について語りたい。だって大切なことを言っていると思うし私自身それを消化するために表現することは必要だから。

 はい、続けます。

 

こだわり

 ええと、ということなので、以降「佐村河内」さんのことについては「彼」と呼ぶことにします。

 作品中、彼のこだわりが垣間見えるシーンがあります。豆乳が好きなんです、ってエピソードなんですけど。館内で一番初めに笑い声があがったシーンだったかな。食事の際に豆乳を飲むんです。パック1本分飲んで初めて食べ物に手を付けるんですよ、って話。

 正直に言います。私、そのときすごい不快だったんですね(笑)。あ、そのシーンそのこだわりについてではなくて、館内から起こる笑い声に対して。これって「彼が」そのこだわりを持っているから笑っているのかな、彼に他の人が同様のこだわりを持っていたら同じように笑い声がおこるのかな、とか考えていました。

 なんで不快に感じたのかなというと、私には別に笑うほどのことかなと思ったからです。そういうこだわりありませんか?って。それって、滑稽なことなのかな、って。ええ、すごい微笑ましいシーンなんですけども。他人が理解できないようでいて、その人がこだわっていることの中には、色々とありますからね~。私自身が、こだわりを敢えて作っているような人間だから余計反応しちゃったのかもしれませんね。こだわりを作って、ある意味「枠」みたいなものを生活の中に作らないと前に進めない。言い換えると「こだわりを使ってなんとか毎日生きる」ということを実践中なので、別に笑わなくて良くない?と思いましたそこは。

 あ、全然笑ってください。そういうふーっと息が抜けるような微笑ましいシーンが、この映画にはたくさんあるんですよ。

 

私がこの映画を見て一番興味深かったこと

 人間というのは己の主観からは逃れられないということ。故に、客観的な真実などありえないこと。事実はあるけれどそれをどう捉えるかは人それぞれだということ。私が普段楽しんでいるあらゆるコンテンツも誰かが編集し切り取り選び取り成り立っているということ。

 具体的に言えば、今これを書いている私だって、映画に対してどういった感想を書いてどういった感想は書かないのか、というのを取捨選択しているわけです。うん。そう思うと、世界ってのは曖昧で不明瞭でぼやけたものであるなぁ~なんて思った次第です。世界はそういうものだ、って思っていればいいんです。多分。

 

 『図書館の魔女』という小説の中で、「人が何を選ぶかより何を選ばないかの方が多くのことを教えてくれる」という話があります。人が何を捨てたのか何を大事にとっておくのかでわかるものがあるのです。だから常に物事の裏に「人」を意識すること。何がどのように編集されて届いているのか、それを忘れてはいけませんよ、ということだと思いました私は。

 

 

 この映画本当に面白かったです。特に最後の最後、筆者が佐村河内さんに投げかけた一言が秀逸すぎた。切れ味がハンパなくて、おわりも見事だった。この映画そのものの意味はなかったな、って思うくらいに。映画そのものが1つの作品でした。

(東京ならまだまだ見れるよ!他の地域でも見れるかもよ!これ逃したら見れないかもよ?ぜひぜひ!)