ベランダの実験室

思考の記録です。

20160823 勘違い女のつぶやき

※以下の文章は自分でもよくわからない思いを表現したものです。どこに着地するかは私もわかりません。 

 

 私は自分で思うけど思いこみが激しい。(この時点で思いこみ)

 「○○なんじゃない!?」と思うと、そこに意識が集中してしまいそれ以外の可能性は頭の中から排除されてしまう。人と違うことを考えるのが好きだから、いかにエキセントリック、風変わりな考えや視点を持てるか、に挑戦している節もある。それ故か、「意見が合う」とかそういう経験があんまりない。あんまりコミュニケーションというものの楽しみをわかっていない部類の人間かもしれない。

 

 思いこみが激しいからかわからないけれど、私は人の考えを自分で咀嚼するのが得意じゃない。具体的に言うと、真正面で誰かと話したりするときなんでも相手の意見を「そういうものだよね~」と受け止めてしまう。そういう風にありたいと願った故の行動なのだけど、実はそれって自分を消耗させているのかもしれないなぁと思った。早い話自分にとっての悪い話もガツンと受け止めちゃうし、人の悪口とかも1つの意見として受け止めてしまう。そこで大切なのは、受け止めるけど賛同するかはまた別で、つまり自分にとって明らかに不快で毒のような言葉もいったんは飲みこんでしまう。机の上に置いて考える題材としてしまう。私の濾過のやり方は昔からそういうものだった。

 故に、私は疲れるのかもしれない。

 

 ニュースの1つひとつに消耗する。なんだか疲れる。それは自分の身には余る問題で、私は何1つ変えることはできないのだと痛感させられる。とある芸能人が暴力行為を働いて、それを断罪などできるのだろうか。台風が来たら仕方がないじゃないか。金メダルにとっての価値は選手と政治家で大きく乖離しているのだろうな。そもそも日本人を応援することって、なんで?優れたパフォーマンスに国など関係ないはずなのに。私は人々が熱狂しているものを素直に受け止めたくない、それ自体を面白がっている人間だから、どんどん偏屈な人間になっていく。それは構わない。今更変えるつもりはない。だけどうまくそれを人に伝えられない。みんなあまりピンと来ていない。そもそも、ピンとくる人間なんているのだろうかとさえ思う。

 

 私は、昔、他人に対する1つの希望を捨てた。つまり人を変えることなどできない、ってこと。人が変わるのはいつも自発的な動きであって、本人が思わないと変わらないのだろうなぁと。変わってほしい、というか、私が何か影響を与えて、働きかけて他人を動かすことなど無理なんだなって強く思った。なんだ、他人って私にはどうすることもできないじゃない、と。それ以降私は他人に干渉するのを避けるようになった。いつでも「参考になればいいけどね」という前置きがないと話せないようになった。←これは比喩なんだけど。積極的に他人に働きかけられない。深く関われない。他人の人生にそんなに責任負えない。

 まあ何が言いたいかっていうと、なんで他人の問題にあーだこーだ言えるのだろうってことなのかもしれない。なんでその人の判断が入るわけ、と。自分の意見がまるで正しいような素振り。声高で「○○ってそういうものだよね」と断言してしまうことの暴力性と言ったら。

 

 とここまで来て、私も所詮同じなのだと思う。人間何かを決めないと語れない。信じないと語れない。それでいいけど、さ。なんか常常色んなことに暴力的なエネルギーを感じてしまって、とても疲れる次第であります。

 

 私のこういう傾向はつまり「自己完結している」であり「自分の世界に籠っている」ということであり、世の中的にはあまり奨励されない傾向な気がする。人間は社会的な生き物だから。コミュニケーションは何が何でも大切らしい。それは、なんだかつらいなぁ。私は別に何かを誰かに伝えたくて表現するのではなくて、こういう見方もあるんですよねということを提示したいだけ。「伝えたい」なんてほど積極的な感情は、なかったりするのだった。最近はつとに思う。なんでみんなそんなにエネルギーがあるの?と。

 

 私の夢は「どこか遠いところに行って静かにゆっくり淡々と過ごす」なのです。