ベランダの実験室

思考の記録です。

20160726 祝福する、ということ

 今日はこのブログ「祝福の日々」について書いていきたい。

 

 「祝福の日々」という名前には、「世の中を愛でる」「何気ないことに祈りを捧げる」というニュアンスが織り込まれている。

 

 決して私は聖人ではない。自分の醜い欲求を持つ1人の人間だ。他人を呪い、恨み、嫉み、その不幸せを願ったことも1度ならずある。言葉遣いも綺麗じゃないし、他人を見下すし、自分の方が優れていると思ったことも何度もあるし、気に入らないことがあると他人を張り倒したくなる、1人の人間だ。だから、自分のことを棚に上げることはできないと思っている。にしても、思うのだ。この世の中は「呪い」に侵されつつあるのではないか?と。具体的に言うならば、インターネットが発達し匿名で語ることが可能になった現代で、あまりにも他者を貶める呪詛の言葉が多いのではないか?まあ私がそういうものが目につく、と言っている時点で自分もそれらの言葉に親和性を抱いているのだと思うけど、それにしても。

 呪いの言葉は、しかし、自分に返ってくる。感じていないかもしれないけど、その身は案外消耗している気がする。私の信条として「言葉は自分に返ってくる」ってのがあるけど、本当にそうだ。自分の言葉が自分の首を絞める気がする。

 

 気に入らないことがあったとしても、それに対して侮蔑的な言葉を吐いたりするのは、結局何にも解決にならないだろう?一瞬すっきりするだけで事態は変わらないし益々悪化させてしまうかもしれない。だったらそんなもの意味がないじゃないか、そう思うのだ。

 私はいい意味で、悪い意味で、他人の人生に介入したくない。いい意味で用いるならばもしかしたら「優しい」になるかもしれないし「偏見がない」ってことかもしれない。悪い意味だと、「弱虫」とか「無責任」とか、まあ色々ある(笑)

 他人の言動・行動を揚げ足をとるかのように分析し指摘するのは、果たして自分のためなのだろうか?他人のためなのだろうか?と、自戒の意味もこめて考えよう。

 

 「呪い」の反対は「祝福」?

 だとしたら、呪うだけの人生は相手の思うツボだし不毛だから終わりにしたいね。

 私は、他者の幸せを祈り、世界にあるものを愛でる人生を送りたいな、ということで、「祝福の日々」。

 

 

呪いの時代 (新潮文庫)