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祝福の日々

私-好きなこと=ブログ、です。

20160708 人生つらいわーと思っている女が『人間失格』を手に取ったら

 私の「人生つらいわー」なんて、そこらへんの枯れ葉程の重さもないことは承知の上で。なんとなく人生つらいなって思っている女は、人生史上初めて太宰先生の『人間失格』を本屋さんで手に取りました。そして得た感想は

 

  • 主人公の葉蔵が私の中にもいるのかもしれない
  • でもさ、そんなに打ちひしがれなくてもいいんじゃね?
  • 明日も頑張ろう

 

 わかりやすく、短くまとめると以上です。わかりやすくはないか。でも大体こんな感じでした。すごい軽い感想になっちゃうけど。

 

 手に取った経緯としては

 

 少しショックなことがあって、それについて色々と考えて、でもどうしようもないよね、じゃあ私はどうすればいいんだろう?いやこうして「考えている」ってことを免罪符にして私は行動していないだけでしょ?でもさそれを私の代わりに責められる人なんてこの世の中にはいなくない?など、いい感じに思考が止まらなくなったところで、最寄り駅に着く。

 最寄り駅の本屋さんに何気なく足を踏みいれる。季節は夏。夏といえば各出版社が出している文庫フェア。今更手に取ることもなかろう、と思ったけど。まさか自分が5分後にその本を手に取るとは思わなかった。太宰治の『人間失格』。

 

人間失格』を手に取るまでの5分間

 私はいわゆる「古典的な」作品を読まない人間です。夏目漱石芥川龍之介太宰治くらいは知っている。文豪と呼ばれた人が生み出す、現代でも読み継がれている作品を、私は読まない。それは「わかりやすさ」を求めているから、なのだと思う。学校の国語の授業で、たびたびそうした名作に触れる機会はあったけども、言葉の使い方や文章の表現がなんとも読みにくい。読むだけでストレスなのに文意も把握しないといけないなんて・・・・。単に自分の学識のなさ故なんですけどね(笑)そんなの授業と問題集と試験の中だけで済ませたい。だから、20数年生きてきて、初太宰作品。ちゃんと定価で買う。へへへ。

 

 先にも述べた通り、私はその日なぜか打ちひしがれていた。具体的には書かないけど、多分大した問題じゃない。大したことがないことに、うじうじ引きずられていた。緩和するために、電車を一駅分余分に歩いたりして工夫はしたけれど、それでも何かに引きずられたい気分だった。そんなとき、そういえば圧倒的なエネルギーで本のタイトルに「人間失格」なんてつけた人物もいたなあ、と思った。

 

 「人間失格」なんて、いい響きじゃないですか。今の私の気分にぴったり。人間失格っていうのは、いくら他人が言ったところで言わなかったところで響くものではない。自分の根底から自分の人生にそういう烙印をつけて初めて、重みが生まれるのではないかしら?そう思った。

 

 ひとまず、本棚の前に立ち適当にページを開く。記憶とは違い、幾分読みやすく感じた。こんなもんだっけ?これなら読めそうだな。読みたいと思うなら読んじゃえ、と結局本を手に持ってレジへ向かう。なんともなしに、本を裏側にすると値段が書いてある。¥260+税 の表記。やっすい!そういえば『人間失格』自体は、青空文庫でも読める作品。ただでデジタルな場で読めるのであった。

 

人間失格』で感じたこと

 トータル170ページくらいなので、一晩集中すれば読める、と思う。この作品はなるべく一気に読むことをお勧めしたい。物語から離れると、そこまでつないでいた何かが切れてしまうから。切れてしまうことは良くないと思うから。

 

 主人公葉蔵の幼少期から生き方を追っていく。「道化」で人々の目をごまかしていた子ども時代。人々が思う「幸福」と呼ばれるものが、自分にはよくわからない。そのことへの不安。具体的に言えば、それは「食べること」でした。彼は空腹感がわからない。だけど人は「食べるために働く」という。それがわからない。わからなくて不安で、だけど普通に生きていくために「道化」で人と接するようになる。自分を偽り人々の求めるものを察し衝突しないように生きていく。そこには「自我」とか「エゴ」とか、そういうものはないように思います。その後色々と生きてきて、大人になって、様々な人と関わる中でも変わらない根っこの部分。もがき苦しみ、時にはある女性を死なせてしまい、時には信頼していた女性が犯される場面を見てしてしまう。

 酒とたばこと末期は薬に溺れるわけだけど、そこらへんは正直どうでもいい、私は。そういうことになった彼の「本質」の部分がとても気になりました。

 

 結局、葉蔵には自分の人生を自分で動かす、という気概が、最初から無いように思います。それは彼がとても賢く純粋だったから。その周りにいる人と少し違う観点を持ってしまったから。周りの人を見て、彼らが幸せだと思っているものは、彼にとっては意味が分からないものだった。それならそれでいいのだと、なぜ思えなかったのか。色々あるでしょう。今とは多かれ少なかれ価値観が違う時代に書かれたものです。それがその後の彼の人生を左右する分岐点だったように思います。彼は自分が何をしたいのか、わかりませんでした。深堀することなく、周囲となんとか折り合おうと必死で生きた結果です。うむー。

 

 色々と、ダメダメな葉蔵ですけど、ここまでくると「いや、もういいじゃん」って思えてしまう。というかそんなに葉蔵ってダメな奴なのかなどうしようもない奴なのかな、とさえ思う。葉蔵自身は救われたのか、救われるタイミングは果たしてあったのか、救うとしたらどうすれば救えたのか。考えてしまいます。

 

 圧倒的な自意識が描かれたこの作品。読者はそんな葉蔵を一歩引いてみることで、自分自身を振り返ることができるのであります。まあ考えすぎてもいいことないよね、もっと楽に生きなさい、という言葉は、第3者から言われてもイマイチ効き目がないのは自分の場合実証済みですが、自分の視点で客観視できるとまた効果が違うのかもしれません。少なくとも私は、考え考えもがいたところで見えてくるものはたかが知れているのかもしれないし、他人はそんな苦しみはわからんのだよ、ということを、この本を読んでなんとなく思いました。考えることが無意味というわけではなく、しかし、いつかはそこから脱しないとどうしようもないのではないか?ということです。

 

 本の巡り合わせ

 この本を高校生の時に読んだところで、私は今の自分より理解できたとは思えません(もちろん今も十分に理解できたとは思っていませんが。むしろ誤解をしている可能性の方が高い)。本というのはつくづく「タイミング」だと思います。というかそう思うことにしています。今、この時期に、その本を手に取ったことは、少なからず人生に影響を及ぼすということ。私が本を選ぶと同時に、本もまた私の選ぶということなのです。学生の定番の宿題として読書感想文がありますが、読みたい本を読むといいと思います。太宰を手にした人はぜひ頑張ってください。