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祝福の日々

私-好きなこと=ブログ、です。

20160705 カオナシの話

 つい最近、「千と千尋の神隠し」をもう何度目になるのかわからないけど、観ました。見るたびに発見があり驚きがあり、それが楽しい。だから私の一番好きな映画は未だに「千と千尋の神隠し」です。

 「千と千尋」を見たことがある人はわかるだろうけれど、「カオナシ」というキャラクターはなんとも象徴的なキャラクターです。初めて見たとき大暴走するカオナシが怖すぎて、カオナシではなく彼(?)を湯屋に引き入れた「千」を恨みました。このバカ女!と思いました。当時も色々と考察されていましたけど、改めて観るとカオナシというのはかわいげのあるというか、奥深い存在なんですな。そう思えるようになりました。というか、ほとんどカオナシと自分を同一視してしまうくらい、カオナシに自分って似ているんじゃない?ってことまで思いました。

 

 カオナシっていうのはどういう存在なのか?wikipediaによると

 黒い影のような物体にお面をつけたような存在。「ア」または「エ」といったか細い声を搾り出すだけで言葉は話せず表情も無い。「己」を持たず、手からどん なものでも出す力を持つが、それはただの土くれが化けているものに過ぎない。また、他人を呑み込んでその声を借りてでしかコミュニケーションが取れない。 主に手から金など人の欲しがるものを出し、それを欲した瞬間にその人を飲み込んでしまう。橋の欄干で千尋を見かけた時から執拗に彼女を求めるようになり、 千尋に喜んでもらいたい一心で番台から薬湯の札を盗んだりした。オクサレ神の一件の翌日に湯屋に現れ、砂金を餌に従業員達を丸め込む。千尋にも砂金を差し 出したが断られたため、絶望して次々と湯屋の従業員を飲み込んでいき肥大化していく。その後千尋と対面するが彼女に拒絶され、ニガダンゴを食べさせられた怒りで暴走し、千尋を追いかけている途中に飲み込んだ人々を全て吐き出し元の姿に戻った。元に戻った後は千尋について銭婆の所に行き、そのまま銭婆の所に留まることになる。

 

千と千尋の神隠し - Wikipedia

 

 

だそうです。

これ↑

 

 ここからは映画を観た私の個人的な意見なので、監督がこう言っていたとか設定とか無視ですけど、カオナシ=私 説を少し考えてみます。

 

 まずカオナシについて気になったところ。

  1. 人が求めているものを出せる(金とか番台の札とか。なら何でも出せそう)
  2. 他者を飲みこまない限り意思表示ができない(しゃべるようになるのは蛙を食べてから)
  3. 飲みこめるのは、相手が「ほしがった」ときだけ?
  4. 千曰く「(カオナシは)湯屋にいてはダメ」
  5. 銭婆のところに残る

 

 なんとなく思っているのは、カオナシっていうのは人の欲求(を自分が満たすこと)が自分の存在意義なんだろうな~ということです。「自分が何をやりたいのか」っていうのがわからない。いや「千が欲しい」っていうのはカオナシの欲求じゃん?って思うけども、「橋で1人たたずんでいる自分に気づいてくれて、気にかけてくれた千」が欲しいんだもんね。千が視線を投げかけてくれたことで、カオナシは存在しました。他の人はカオナシには目もくれていません(というか見えていないのかも)。自分で自分の存在を肯定することができていない。ん~これって、カオナシだけの問題じゃない。というか現代で人々が陥っている病理を体現している存在だと思います。最近観返して、「うへ~私カオナシじゃん」って思っちゃいましたもん。

 

 カオナシが他人に存在を依存しているのは、誰かを飲みこまないと言葉を発せないことにも表れている気がします。「自分の言葉を持たない」ってこと。なんだけど~~これは別の側面もあるように思えて。言葉って言うのは所詮「借り物」なんですよね多分。私の言葉は今まで出会った誰かの言葉がミックスされたものなのですから。その配合の差異が個性なのでしょうな。でも飲みこんじゃうのはどうかしらね~。それって丸ごと取りこんじゃうってことだから。それだと自分=他人じゃないですか。だから半分くらいにしておけばいいんじゃないかな、っていうのは違いますね多分(笑)蛙の頭だけっていうのは絵的にもグロテスクです。

 

 あとは千がカオナシの暴走をいなしているときに「湯屋にいるからいけないんだよ」ってリンに言うシーンがあります。これは完全に妄想ですけども、湯屋っていうのは神様をもてなす場。神様がくつろぐ場所です。私もどこかに泊まりに行きますけど、「○○したい~~~!」っていう開放感があるんですよね、日常とは違って。そもそもゆったりくつろいでいることは自分の願望を発散させているわけですから。だから自分が何をやりたいのかわからないカオナシにとっては、少々「願望濃度」が濃い場所じゃないか、と。正直レベル高いです!みたいな。おろおろしちゃう。

 さらに、湯屋で働く面々は湯婆と契約関係を結びあくせく働いている。釜爺も「風呂釜でこきつかわれている爺だ」とか云々言っているし、ススワタリも働かないとただの煤になっちゃうらしいし、リンは眼下に広がる海を見ながら「こんなとこいつか出てってやる」なんて言っているし。つまり「○○したい」という願望は湯屋で働く面々にも当然あるわけです。労働環境が過酷であればなおさら、その求める力は大きいのかも。そうなると、カオナシはどうなるんでしょ。人々がほしがるものを作りだせちゃう(偽物だけど)、人々はそれをしっかりほしがりますからね。カオナシにとっても良い環境じゃありません。そのうち土くれであることがばれて、人々から痛い目を受けるだけでしょう。そのあたりは、虚栄心云々で私も他人ごとじゃありません。

 

 「人の願望が自分の存在意義」になっている人はじゃあ、どうすればいいんだ?と悲しみに暮れるわけですけど、解決の糸口はカオナシが行きついた場所じゃないかな、と私は思っています。つまり銭婆です。

 映画で観る限り、銭婆なる人物の全容が明らかになっているようには思えません。わかっているのは

・魔法が使えること

・湯婆とは2人で一人前

・なのに仲は良くなさそう

・慎ましく、自給自足的な生活をしていること

くらいでしょうか?

 

 銭婆で面白いと思ったのは、魔法が使えるのに千たちご一行を迎えるときは「自分で」玄関ドアを開けたこと、でした。魔法で全自動扉の湯婆とは全く違います。たばこの火も魔法の湯婆とは対照的に、お湯を沸かすときもコンロのようなものにやかんを置いていたように見えます。銭婆は、魔法にあまり頼らず自活しているようです。自分の身体、自分の等身大で生活を営んでいます。カオナシに必要なことは、そういうことじゃないでしょうか?人々の願望に自分を投影するのではなく、「自分」に立ちもどる。それは自分の身体で生きることです。

 

 カオナシが怖くて化物で、銭婆はこんなやつといて大丈夫なの?と幼心に思っていたけど、銭婆だから彼と一緒にいられるのかもしれない。他者に何かを求めるのではなく自分を掘り下げるような、そういう生き方を銭婆はしてきたのではなかろうか?と勝手に暮らしぶりを見て思っています。

 

 だから、私もね、あーだこーだ人の顔色を見ておろおろしちゃうわけだけど、もっと身体に立ちかえって生きてみたら?ってことです。とりあえず他人の姿をまとって自分に圧力をかけるのはやめようと思っています。

 

 最後にですけど

 銭婆の家できちんとフォークを使ってシフォンケーキを切り分けて大きな口をあけて(口は暴走状態と同じ作りでしたけど)ぱくって食べているカオナシが、とっても好きです。おいしそう。