ベランダの実験室

思考の記録です。

ほろ酔い日記

 私は半年に1回くらい、まれに飲み会に行くことがある。

 私は普段、酒は飲まない。だが少なくともお酒に弱いわけでは無さそうだ。

 

 私は幼い頃から、酒を飲んできた人間がどういう風になっていくのかを身近で見てきた。呆れたし、馬鹿だなと思ったし、その人を嫌いになったし、その人をみじめにさせていく「酒」というものを忌むようになった。

 

 で、私は酒を飲める年齢になった。

 

 ごくまれに、自身も酒を飲まなければいけない場に身を置くことがある。

 お酒を飲むことで、気分は確かに高揚するし、言葉はスルスルと口から出ていく。なんだか楽しくなってくるけれど、同時に不快感も大きくなる。それはきっと幼い頃からの記憶も影響しているのだろうな、と思う。

 

 嫌悪感が楽しさより上回ってしまったので、今日も早く切り上げることにして、盛り上がっているところを途中退場してきた。

 

 若干アルコールを入れているのでこの文章は「ほろ酔い日記」とさせていただいた。「ほろ酔い」ではなく「酩酊」としたいところだけど、そこまでではないと思う。が、身体は怠い。はっきり言って不快だ。

 

 お酒でつながるコミュニケーションもあると思うし、それは認めるけれど、お酒を飲まずに語れることの方が素晴らしいと思うけどな、私は。

 

 そんなことを思いながら、夜は遅いのでもう寝ます。

自転車

 自転車を漕いだ。

 脚がパンパンになった。

 すぐに体が熱くなって、上着を脱ぐ。息が上がって、呼吸が乱れる。自転車ってこういうものだっけ?でも自然と笑みがこぼれた。楽しい。

 

 おにぎりをコンビニで2つと麦茶を買う。ベンチで座っておにぎりを頬張る。至福のひととき。

 

 もうこれさえあれば、人生幸せじゃない?

 

 そう思った。

 

 そのうち、かっこよくて機能的で乗りやすい自転車を買って、水筒も買って、お弁当自分で作って、サイクリングをしてみたい。いつか。

鞄を買ったので痩せます

鞄を買いました。


今のところ、買った鞄に使い手の私が付いていけていません。

だから、鞄に追いつくために色々取り掛からないといけません。手始めに、着手している減量をきちんとしましょう。あとは洋服、だな。


私はろくでもない人間なので、ものに支えられ日々生きている在り方も、悪くはないのかもしれません。

言語化

 「言語化する」という言葉。私は文字通り「言葉にする」という意味で使っている。

 

 私は他人についてあまり言語化しないような気がしている。

 山田さんはこういう人。

 鈴木さんはこういう性格の人。

 高橋さんはこんなことが好き。

 だから私は他己紹介があまり得意じゃないと思う。他人のことを説明することをずっと避けてきたようなのだ。

 

 私が誰かを言葉で説明しようとするとき。言葉で説明できてしまうとき。それはその人が私にとって興味深いと判断した場合か、あるいは、その人が生理的に受けつけないくらい嫌いになってしまったか。この2つだと思う。

 

 人を嫌いになるのは嫌なものだ。自分は小さい人間だなって思うし、嫌いという感情は気分が悪い。だから、どんなに嫌なことがあってもそれを気にしないようにしてきたつもりなのだけど、時々それが難しくなることもあるものだ。

 

 私は他人に関心がない。どうしたものか、と考えている。これからの課題というか。どう人と付き合っていけばいいのか、昔ほど深刻に捉える必要はないだろうけれど、ゆっくりとそういうことを考えたいなとは思っている。

 

 言語化していないということはつまり人に興味がないってことでもあり。ただ言葉にすると私という人間はその人の良くないところばかりあげつらってしまうようで、よくないなぁと思うのだった。だから言語化しないってのは、もしかしたら嫌いにならないための防衛策なのかな。違うか。

 

 そういうことを、最近は考えている。

散歩と焼き肉

 散歩

 買わなくてはいけないものがあったので、今日は散歩がてら買い物をしてきた。買うものがある場所それぞれが点だとすると、点と点をつなぐ形で今日はよく歩いた。点から点へ歩きながら私はお日様の光を感じる。相変わらず寒いけれど陽の光は温かい。春はいずれやってくるのだろうなぁ、と思うお日柄だった。

 

 紙袋を片手で持ち、前へ後ろへ腕をゆらゆらしながら一人歩く。

 ふと思う。一人って楽しい。

 いや、違うかな。誰かといると、私は楽しくない。

 

 一人が好きだから一人でいるのか、誰かと一緒だと居心地が悪いから一人でいるのか。もしくはどちらもなのか。とにかく、私はいつも一人だなぁと思う。

  今日の気持ちはきっと前者に近い。一人が好きだから私は一人でいる。

 だけど、嫌なことがあったりして落ち込んでいたりすると、気持ちは一転、後者に傾く。誰かと一緒にいるの嫌だ。そんな私なんて…メソメソ。本当はみんなとたくさんお話したいのに、それができない自分を蔑み、周りを恨むのだった。

 

 でも、まあいいや。

 今日の私は一人でいることが心地よく、私はそれを味わっている。今日の散歩は楽しかった。ぼんやりとただ歩くだけ。急ぐ必要もなく、時間がなんとなく過ぎる。贅沢な時間の使い方だと思った。

 

 

 焼き肉

 熱くなった鉄板を囲み、めいめいが食べたいものをつっついていく。

 焼き肉を久しぶりに食べた。でも、私はふてくされてしまった。焼き肉に罪はないだろうに。

 

 気に入らない話は聞きたくない、と思ってしまう、なんとも殻に閉じこもった私なのか。

 ひとたび「気に入らない」と思ってしまうと、もうその人のことは気に入らなくなってしまうのだった。普段はそこまでにならないよう、あえて意識を集中させず、右から左へ聞き流すようにしているのだけど、今日はもうダメだ。

 

 鉄板を囲みながら、とりとめもない会話が続いていく。誰も気にしちゃいないのに、私は妙にこだわる。こだわって、ムキになって、つい強い口調で心にもないことを言うのだ。そしてそういうときは決まって必ず後悔する。案の定後悔した。

 相手を傷つけようと、あるいは、とにかくこの場所に冷水をぶっかけてやりたい、そんな一心で、確信犯的に言葉を吐く。場が凍り付いたその瞬間だけ、実は少し爽快な気分だったりして。それはすぐに自己嫌悪へと変わるのだけどね。

 

 ああ、あんなこと言わなきゃよかったな。馬鹿みたいだ。意地張ってもロクなことにならないよな、わかりきっていることなのに。そうやって私はいつもくよくよするのだった。この自己反省の時間、本当に嫌だ。

 

 こうして、「言わなきゃよかったのに」という思いをするたびに、「私、もう無口になりたい。一生喋りたくない」ってことと「感情を麻痺させたい」と思うのだ。

 もう必要なとき以外喋らないようにしよう。そうすれば相手を傷つけるようなことは言わないし、自分も傷つかなくて済むじゃないか。感情を麻痺させれば、こんな痛みなど抱かず、ずっとニコニコしていられるのではないか。そう思うのだった。

 

 売り言葉に買い言葉。もうこんな思いをするのは嫌だから。私はどんな時も冷静に誰かの前に立っていたい。そんな毅然とした強さを持ちたい。焼き肉を食べながら、そんなことを考えていた。そんなことを考えているから、肉のおいしさなんて思いだせるわけがなかった。

主義主張ということを考える

 これを読みました。

news.yahoo.co.jp

 

 「食べない」といっても、その内情は様々であること。「食べない」という言葉で減少を一括りにできてはしまうけど、一括りにするのは少し危ないなぁと感じました。だって、「自分の生き方をこうしたいから食べないんです」と「なんか食べることについて考えるの嫌で」というのは違うと思うので。「食べる」「食べない」云々で悩んでいる人は自分と近い考えが見つかればいいと思います。

 

 私は食べることが大好きで、作ることも厭わないと思うのだけど、そうか、そういう人もいるのだなぁ、という感じです。それ以上もそれ以下も言えない気がする。

 

 主義・主張ということを考える。

 私は割と「自分の生活こうしたい!」ということに意識的なのだけど、主義・主張というのは取り扱いが難しいなと思うことがある。自分にとって「確信的なこと」は、必ずしも他人にとって大切だとは限らないのだ。声高に「私はこう生きたいんです!」と唱えることで色々な人が救われてきたし救われると思うけど、「違う」ということは自分だけではなく他人にも認められることだと思うのだった。

 

 食べたい人もいる一方で、食べたくない人もいるらしい。それだけのこと、なのだろうか。ちょっとまだ保留だな。

20170127 私、失敗したくないので

「私、失敗しないので」

これは、天才外科医である大門未知子の決め台詞である。

 

「私、失敗したくないので」

これは、普通の一般人である私の、ひそかな…なんだろ、ポリシー…じゃないな、私の個性であり、同時に弱点だ。

 

私は、失敗したくない人間なんだな、と思ったことがあった。

プライドも高いし、他人より秀でていたいという思いも持っている。それは必ずしも悪いことではなく、自分を高めようとする向上心にもつながるだろうから、要は取り扱いの問題なんだと思う。

 

「失敗したくない」

だから私は慎重だ。実際細かいことは苦手だし、私よりよっぽど慎重に丁寧に事を運ぶ人はたくさんいる。「私、慎重なんです」と言っても、多分普段のイメージからだと信じてもらえない気がする。私は自由奔放だ。自由気ままにやっているけれど、自由気ままにやる範囲は「私が想定した範囲内」でのことだ。ここからここまでは、何があってもOK。ある程度起こりうることは想定しているし、万が一失敗したとしてもそれは織り込み済み。そんな枠内で気ままにやっている。例えをあげるなら、私は海外旅行に行こう思ったことが、ない。それは、海外旅行で起こりうることが現段階の私の脳内で考えられることの範囲外だからかもしれない。つまり、よくわかんない。多分なんとなかるんだけど、どのようになんとかなるのか、それが皆目見当がつかないようなイメージ。

 

失敗したくない私は、検索魔である。

行こうと思っているお店の評判。買おうと思っているゲームのレビュー。観ようと思っている映画の感想。これから着手するあらゆることについての情報を、あらかじめ入手したいという欲求を抑えることができない。そんなことをしていると、結構世界はつまらないんじゃないか。世界は広がらないんじゃないか。今の私はそんなことを考えている。

 

おいしくなくても、面白くなくてもいいじゃないか。ショートカットをして、最短ルートで生きたいな~なんて、らしくないことを時々一生懸命実行しようとするのだ。失敗しちゃえ。そう思う。失敗しないように、そう生きていると人生つまらないものじゃないかって、思うから。

 

ということで、具体的には、何かに取り掛かるとき、つい調べる癖を直すことができまいが、できるだけ検索しないように頑張る。一番いいのは、スマホとかPCとかを物理的に遠ざけることだな。なんて。