ベランダの実験室

思考の記録です。

ムカついても、ムカついても。

 私は、性格が悪いと思う。

 性格が悪いというか、自分なりに考えて、人とおんなじように流されたくなくて、それを自分のなかで全うしようとして、まあ、理解されない。

 

 最近はそれに加えて、自分の心が荒んでいるのかなんなのか、とにかく負のオーラが自分からにじみ出ているような気がする。

 具体的に言うと、街中で人とぶつかったり満員電車で我先に出ようとする人を見たり並んでいる列を無視して割り込む人がいたり、そういう人たちを見て「とにかくその人たちの人生、不幸になったらいい。ロクなこと無いぞ!」と思うことでしか負のエネルギーを発散できていない状況。とりあえず、帰り道に思いっきり転んで!って思ってしまうのだ。これはだいぶマズい。そもそもそんなところに引っかかっているあたり、精神的に余裕がない証拠のような気がするのだ。

 

 私は自分が気が利く人間だとは思っていないが、小さなころから定期的にムカついてしまう非常に鈍くて自分勝手な人間がそばにいて、いまだにそれを消化できていないことを最近になって改めて思い知らされた。とにかくイライラする。当の本人は全くダメージを受けていなくて、どうして私のほうが勝手にキリキリしないといけないのか。なんで私の方が我慢したりしているのに、あいつは悠々自適に過ごしているのか。ただただ腹立たしくて、ついに私はひそやかに宣戦布告をした。端的に言うと、もう無視。ひたすらに無視。本人と関わることは一切しない。声もかけない。何もしない。もう私は振り回されない。そう思っていたはずなのに。

 

 結局ダメみたいだ。戦いを挑んだところで、相手からは返り討ちに遭う始末。私がなぜそういう態度をとっているのかすら、自分自身に問えない人間だっていうのは知っていたはずなのに。私は何を期待していたのだろう。

 

 ということで派手な宣戦布告はあっけなく取り下げることにするけれど、心の中では祈る。近しい身内であるはずだけど、どうか幸せにならないでほしい、と。

 

 ムカついても、ムカついても。

 その相手はピンピンしている。平気で幸せになっていく。ああムカつく。イライラする。悔しくて悔しくてどうしようもなくて、でも相手はちっともダメージを受けていない。ただただ私の手のひらが血で汚れるだけ(もちろん何も物騒なことはしていません。あくまで比喩です)。

 そういうときはどうすればいいのだろう、と考える。

 忘れる。自分にとって心地よいもので己を満たす。私も幸せになる。ムカつく人を永遠に私の中から葬る。消し去る。無い者として考える。不幸を祈ってもダメ。それは考えているということだから。もう存在を消すレベルで、考えないようにする。私から遠ざかる。

 

 私がいくらキリキリしても嘆いていてもムカついても、悲しいことにわかってくれる人はいないだろう。わかってもらえることを期待してもおかしなことになるだろう。同情を求めてはいけないんだなぁ。そんなことを考えていました。こんな感じの日々だけど、実は滞っている問題がない。だからこそ、ちょっと怖い。疲れているのかなぁ。それはマズいなぁ。

水没

 iPhoneが水没した。

 典型的なシチュエーションで、どぷんと水の底に沈んだiPhoneを見たとき、不思議と私は驚かなかった。冷静にiPhoneを底から手で掬い上げ、水分をふき取り電源を切り、PCで「iPhone 水没 対処法」のワードで検索をかけまくって、できる限りの処置をした、と思う。

 おかげで今日はiPhoneの電源すら入れられない。しばらく水分を取り除くために乾燥させないといけないからだ。その後電源を入れて無事に動くかどうかは、iPhoneのみぞ知る世界。

 「スマートフォン」がないと、ほんの隙間の時間を持て余すことに気がつく。逆に言うと、どれだけの細長い時間(+ゲームやネットサーフィンにハマったら細長いどころでは済まされない膨大な時間)をスマホとやらで埋めていたのか。そんなことを考える1日だった。かといってこれからもスマホは手放せないけれど。

【Book】穂村弘『もうおうちへかえりましょう』を読んで

 2017年は穂村さんの本を読む年である。

 別に「穂村さんyear」と決めているわけではなく、ごく自然にそうなってしまっているだけの話。たまたま年明けの前から穂村さんの本をちらほら読み始め、なんだかほっとするし面白いしああ~わかる~~と思うことも多々ありでも意味わかんないなと思うこともあり、読み終わった本を返してはまた穂村さんの本を借りるのである。

 

 私は、世の中の人がもっと自分の思っていること、見ている風景を表現すれば、少なくとも年に3万人くらいの人が死ぬような事態にはならないような気がしている。ああ、こういう考え方もあっていいのか。こういう風に考えている人もいるのか。考え方なんて人それぞれ違うものであって、別にその人がおかしいわけじゃないんだ。そう思えればまだマシなような気がしているのは、私の希望的観測なのだろうか。甘いのだろうか。

 

 その話と穂村さんの話がどうつながるか。大いにつながる。

 

 穂村さんのエッセイは穂村さんの話である。穂村さんが見ている風景がそこでは描かれている。私は穂村さんじゃないからピンとこないこともある。なんでこんなこと考えるのだろう?私はそんな風に思ったことはないけれど。それと同じように、ああ~こういうのわかるなぁ、ということもある。穂村さんが感じていることとまるっきり同じじゃないけど似たようなことを考えている自分に気づく。そんなとき、自分の存在がちょっと許されたような気がする。許されるというか、ああ、自分この世界にいてもいいんだなって思うことに似ている。だから、穂村さんのエッセイを読むことは、延命措置というかそういうものでもあるのかもしれない。…ちょっと違うか。

 

 特に私は、「ひとりドミノ倒し」の話が好きだ。

毎日を「海の一日」の鮮やかさで生きたいと願う。

 私もそう思う。そして、オチがちゃんと穂村さんだった。

 

 今年は、より生き永らえるために(そんなことを言うと深刻だけどそうでもないです)穂村さんの本をまだまだ読んでいく。とりあえず穂村さんの新刊を購入したのにどこかへ行ってしまったので、それを探さなければ。

 

もうおうちへかえりましょう (小学館文庫)

食べることがアイデンティティだった私

 私は、早食いで大食いキャラだった。

 大食いと言っても、平均女子より食べる量が多いだけのことで、あとは食べることが大好きだった。たったそれだけのこと。

 周りからは「よく食べるね~」と言われた。「(普通の女の子より)よく食べるね~」というだけのことだけど、それでも十分「私らしさ」になった。

 

 食べることがアイデンティティだった私だけれど、最近めっきり食べることへの関心が薄くなった。

 今の体型より痩せてみたい。そういう思いはあるけれど、それが食べなくなったことの大きな理由か?と言われると少し違うような気がする。もちろんダイエット中なのだけど。

 

 食べることに疲れた、のかもしれない。

 食べることでアイデンティティを保つ必要などなかった、という気付きも大きい。食べたくなかったら食べなくて良かったのだ。食べることがさほど楽しいことでなくなったら、それで良かったのだ。頑張って「食べるキャラ」であり続ける必要などどこにもなかったのだった。

 

 お腹いっぱいまで食べること。それが少々つらくなってきた。

 腹八分目、という言葉の意味を知った。満腹状態はその後の行動に支障が出る。

 

 理想は、ちゃんと空腹状態になって食べたいものを食べることだ。今は全然お腹が空かない。うーん。問題だ。

 

 そんなことを、今日は考えていた。

 

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泥沼の日々の端にて

 約1年前。私はドロドロの沼の中にいた。

 どうしていいかわからなくて、ひたすら部屋に籠って、時にはふらふらを街に繰り出して喫茶店で一杯のコーヒーで数時間も時間を潰した。

 

 やりたいことなど、なかった。

 生きていることが一体何なのかわからなくなる、という底なし沼にはまった。

 すべてが意味のないことだと思えた。自分は孤独なのだと思った。

 

 こうして書くと、だいぶ病んでいるというか酔っているというか、ある種の「状態」である。しかし、当時は切実なことだった。誰にもそれを笑わせない、と思った。

 

 どうにかこうにかして、私は今も生きている。傍目から見ると割とまともに見えていると思う。朝同じ時間に起きて、勤勉に生き、夜は爆睡の日々。

 

 まともに見える。自分でも、もう私は大丈夫なのではないか、と思う。だけど、いつあの「状態」になるか、そういう「恐れ」みたいなものは常に付きまとう。いつスイッチが入るか。いつダメになるか(ダメって言っちゃいけないと思うけれど)。

 

 どうにかこうにか生きている。沼はすぐ近くにある。いつなんどき足をとられてもおかしくない。だけど、できるだけ私は生きる。そうすると決めているのだ。

 

 綺麗な景色を見たい。心から感動するものに日々出会いたい。それぐらいしかないのだ、私には。

amazarashi Live Tour 2017 参戦の簡単な備忘録

 2017年6月3日(土)、私は豊洲の地へと足を踏みいれました。

 そう、amazarashiのライブに参戦するために、です。

 

 この文章を書こうか書くまいか、少しだけ考えました。

 最後の音楽が鳴りやみ、会場は光に照らされ、各々ライブを通して感じたこと、その興奮は冷めることを知らず、まだまだ熱がこもっている会場を後にしながら、私は少々打ちのめされていた。今、私が抱いている感情を言葉にすることはきっとできない、この思いをきちんと言葉にできるだけの技量が今の私にはない、という事実が、私を襲う。

 それでも、私は今この文章を書いている。ああ、陳腐になってしまうとわかっていながら、しかし私は文章を書くのだ。それが私の救いなのだから。

 

 ということで、簡単な備忘録です。

 

 

 

 

 amazarashiのライブに、私は初めて行きました。

 チケットをとる画面の前で何度も何度もボタンを押すことを躊躇ったけれど、思いきってライブに行って良かった。本当にそう思いました。

 

 amazarashiの声を、エネルギーを、悲しみを、怒りを、寂しさを、喜びを、全身に浴びて帰ってきました。

 

 身長が低くてスタンディングだから絶対ステージを見ることはできないだろうなぁ、整理番号も後ろの方だし、と思って覚悟して、案の定、人、人、人に囲まれスクリーンすらまともに見ることが叶わなかったけれど、私は満足です。音は振動となって空気を伝い私のところまで届く。それを通して私は約2時間、色んなことを考えたり考えなかったりしていました。それで十分です。

 

 CDで繰り返し繰り返し聴いていた曲が、歌われている。でも、全然違う。CDをけなすわけじゃなくて、ライブというあの特別な時間と特別な場所の力なんだと思った。重みが、熱量が、まるで違う。がんがん迫ってくる。骨の髄に染みてくる。だから、amazarashiが好きな人はライブに行った方がいい。絶対違うから。あの場所で、好きな曲を存分に浴びてきてほしい。

 

 

 人間には、ここまでの物語がありエネルギーがあるのだなぁ、と思いました。それがこの文章のまとめです。私は日頃「人間」をあんまり感じていなくて、いつもそれが不安で。人間って何だろうか。どうしたらもっと人間を知ることができるのだろうか。みんな、生きているのだろうか。何を感じているのだろうか。どんな人生を生きているのだろうか。軽い軽い、吹っ飛びそう。そういうふわふわした毎日で。だけど、あの場所の重力はハンパなかった。色んなエネルギーがどんどん拡散されていって、恐ろしい空間でした。そうだよなぁ、私が気がついていないだけで、人間色々思っているんだ。絶対そうだ。命削るような、祈りの時間でした。そのエネルギーをもらって、帰ってきました。

 

 明日から、また生きていきます。

 これからも機会があればamazarashiのライブに行きたいです。できればスタンディングじゃない会場で。

 

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内なる毒素、つらつら

 今日感じたことまとめ。

 もっと賢くなりたい。そして、傷つきたくない。

 

悟り

 私が今現在、最も嫌っている人と夕食を食べに行く。向こうはお酒が既に入っている、絶好のコンディション。殺意が湧く。そのこと自体が大層腹立たしく、またそれを抑えることができていない幼い自分にも腹が立つ。

 途中で、こんなふざけた不快な状態になんとか救いを見出そうと、開き直ることを考える。開き直るというか、ああ、もうどうでもいいやと思うことにした。だって怒るの疲れるんだもん。向こうは全然ダメージが入ってないのに、私が一方的に自滅して一体どうするのよ。馬鹿みたい。

 ということで、適当に向こうが機嫌を損ねないように相槌を打つ方向に路線変更をする。まったくもって敬意を払っていない姿勢である。そういうところは先方にもばれちゃうんだろうな、きっと。

 機嫌をのせておけば問題ない。まことしやかに論理的に市場経済について一講義をしてくださるのも、適当に流す。私は感覚的に「それは違うよなぁ」と思うことも、向こうは積み上げてきた論理というものがあるらしく私のふわふわした感情的意見は跳ね返されてしまう。悔しいけど、抗わずに流すのが吉なのだろうなぁ、と今日はよく思い知らされた。

 酒が入った人間に対し、断固として頑なな態度をとることで私は己の意思表示をしてきたのだけど、それはまったくの逆効果でひどければ炎にガソリンをぶちまける事態になることをこの歳になって知りました。酒に溺れる人間はこの世から消えてほしいと切に願う今日この頃ですが、私がこれからも何事もなく快適に生き残るためには、抗うだけでは上手くいかないのかもしれません。とりあえず笑っておけ。で、1人になって上手く事態を乗り切れたら思いっきり自分を褒めよう。えらいえらい。誰も褒めてくれないから、私が自分で自分を褒めるのだ。

 

 

眼力

 にらめつけることで、ちょっと熱を放射して人間をひりひりさせる超能力が欲しいと思っている話。

 

 電車というのは、とても公共的な空間である。通勤通学でラッシュに巻き込まれるならなおさらである。狭い空間にたくさんの人。多くの文化を持った人が空間を共にする場所。そういうこともあって、とにかく色んな人がいる。すぐに忘れるからどうでもいいけれど、私は毎日なにかしら、ムカつく人に出会う。私が単純にムカつきやすく心が狭い人間なのだと思う。ムカつく人に会ったとき、私は心の中でささやかながら「段差に躓いて転んじゃえ」と思うことにしている。レーザービームを出すことができる眼力はないので、心の中でただ祈っている。でも考えてみればこれは祈りじゃない。れっきとした「呪い」だ。

 「勧善懲悪」をいうものを私は信じてはいない。そんなに世界は素敵ではない。こんなに人が自死する世界が素敵であっていいはずがない。でも、ひどいことをした人間はまともに幸せになれない、なられては困る、絶対人生のどこかでは苦しむのだ、とは思っている。無理にでも思うことで私は生き延びているのだ。

 

 

喋りたくない

 喋ることでカタルシスを得ても仕方ないのでは、と思う今日この頃。どうせちゃんと物事考えていないんだ。いっつも適当に喋っているのだから。