ベランダの実験室

思考の記録です。

マクドナルド ワッフルコーン プレーン(20190517)

 ソフトクリームが食べたかった。家の冷蔵庫にはmowがあるのだけれど(美味しいよね)今の私はソフトクリームが食べたい。家でソフトクリームは食べられない。そりゃあ、スーパーのアイス売り場にもソフトクリーム(っぽいもの)はあるけれど、ソフトクリームは「ライブ感」が強い食べ物だ。パフェと同じように。誰かが作ってその15秒後には、はむっと食べるもの。家ではなかなか味わえない生っぽさ。

 結果、マクドナルドに行くことにした。これを思い出したのだ。

 

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マクドナルドのソフトクリームは知っている。でも食べたことがない。そして、何も自分の分だけ買うことはないのだということ。その光景が私には、無かったのだ。 誰かの為にソフトクリームを買う。 一緒にこの甘い食べ物を共有できることを喜びながら。はい、とソフトクリームを相手に手渡す。その発想は、無かった。

パパと犬とソフトクリーム(20181010) - ベランダの実験室

 

 あははは。こんなこと書いていたのか私。過去の私よ、私は相変わらずです。残念だったな。今日は誰かの為じゃなくて自分の為にソフトクリームを買おうと思うよ。

 私は知らなかったのだが(だってマクドナルドでソフトクリーム買ったことないし買おうと思ったこともない)いくつかメニューがあって、100円マックだと「ソフトツイスト」が、さらに50円課金するとコーンの部分がパワーアップしてワッフルになる。パワーアップと表現したのは、皮の厚さとかパリッと具合であって、ワッフルが強いか、普通のコーンが弱いか。そんな議論は不毛だろう。どちらもそれぞれに美味しい。これが真理だ。

 しばし考えたのち(レジはドキドキする)「ワッフル」の方を頼むことにした。理由は無いけれど、100円と150円はどちらでも良いかなと思ったから。150円と200円は結構違うと思うけど。

 店員のお兄さんが終始にこやかで「素敵だな」を通り越して「笑顔、もつのか大丈夫か?」という謎の心配をしてしまった。お兄さん、偉い。ちゃんと愛想よく代金を支払う。こういうとき「ありがとうございます」と言ってしまうタイプだ。愛想が良いには、愛想が良いを出来るだけ返したい。できるだけ。

 もういいや、と歩きながらソフトクリームをはむっと口に含む。冷たい。ミルク感たっぷり。美味しい。美味しいので、人が行きかう道すがら「美味しい!」って思わず声に出してしまった。「美味しい!」は夜の街にすぐに溶けてしまって、きっと誰にも聞こえなかったと思うけれど。美味しい。美味しい。これ、美味しい。ミルクを食べ、コーンを食べる。まったり感とぱっさり感が交互にやってくる。ワッフルは本当にぱっさりで(良い意味で)まったりぱっさりのリズムが楽しい。

 ケバブ、タピオカは私が好きな食べ物で、この2つはエンタメ性があるというか美味しいだけじゃなくて食べることに集中せざるを得ない、「食べ方」まで楽しめてしまうところが良いと思っているのだけれど、ソフトクリーム(加えてコーン部分かしっかりしているもの)も同じだと思う。こんなに楽しいのだなソフトクリーム。ソフトクリームだけあっという間に食べては、あとのコーンがつらい(口の中の水分が全部持ってかれるぞ)ミルクをほどほどにいなしながら、コーンも忘れず食べること。そのバランスを見極めながら攻略することの楽しさです。

 実はひんやり涼しい夜だけれど、暑さに乗っ取られた体で食べるより、きっと今日の方が落ち着いて食べることができた。ソフトクリーム、美味しいな。

火葬場にて(20190516)

 私は人の泣き顔を見るのが苦手だ。喜びからの泣き顔はまだいいのだけれど、悲しみの泣き顔は見たくない。どうしていいかわからないから。なんだか、気恥ずかしくなってしまうから。見てはいけないように思えて。人の隠された顔を垣間見る瞬間。知らない顔を見るのはいつだって怖い。だから、葬式も苦手だ。

 どうして悲しむ?と思う。どうして、泣く?そんなに悲しいことかしら。だって、人はいつか死ぬというのに。私も、あなたも。それが遅いか早いかの違い。

 泣くくらいなら、生前から全力でその人と向き合ったらよかったのに。

 泣けない私は、困った顔で棺の前に立ちすくむ。

 眠っているかのようにその人は棺の中に寝かせられていて。穏やかだけれどそこに魂がないことはわかった。怖かった。圧倒的な死が、今目の前にはある。死。死。死。係の人に花を手向けてください、と言われる。死花死死死花死花死。死と花はこうして並べてみると似ているのだな。漢字が。ぐすぐすとあたりから嗚咽が聞こえてくる。やめてくれ、と心の中で私は哀願する。聞きたくない。故人が愛用していた品も納められる。CDは駄目だと言われた。口紅はキャップを外すとよく燃えます、とのこと。手分けして蓋を持ち、棺にかぶせる。閉所恐怖症の気はないけれど、真っ暗な棺に閉じ込められた自分を想像して悪寒がする。ま、「そのとき」はとっくに意識を手放しているのだろうけれど。

 火葬場は、公共的な空間に思えた。1区画だけ異質なところがある以外は、例えば図書館のロビーや介護施設、病院を思わせる内装。天井が高くに光差すステンドグラスは綺麗だった。面白いくらいとてもシステマティックに事が進む。次から次へ、黒の参列者が空間に吸い込まれては出ていく。控室は30分から1時間単位で決まっており、用が済んだ一族が引き払えば次の別の一族がそこで時を待つ。一日にこんなにも人が亡くなる(正確には火葬される)のか、と、なんといっていいかわからない気持ちになる。

 番になる。その空間だけつやつやと磨かれた石が床一面に並び、天井はさらに高く、正面には何枚もの荘厳な扉が並んでいる。制服姿の男性たちが作業に忙しく、突っ立っている私たちは所在げがない。棺は扉の前に並べられ火葬されるのを待っている。担架みたいなものに乗った棺は、ごごごと開いた扉の奥にするりと滑らされる。真っ暗で何も見えない空間。あそこに閉じ込められたらどうしよう。怖い。

 お別れだった。

 死亡診断書を見せてもらった。死ぬことは、膨大な事務手続きを残すことでもある。書類書類書類。何事も証明が必要とのこと。15分前の恐ろしい感覚のことを考えると、いささか滑稽というか、なんというか。うまい言葉が見つからない。診断書の「平成」のところが二重線で消され「令和」になっていた。新しく「令和」とプリントされるまでに、「平成」と書かれたこの紙が無くなるまでに、どれくらいの人の名がこの紙に書かれるのだろう、と思った。

 校内放送のようなチャイムが鳴る。もう一度、あの空間に戻る。ぞろぞろと。骨を骨壺に収めるので係の人の説明を受ける。その間参列者の意識は係の人の説明に向けられるけれど、その間、炉から取り出された果ての回収する係の人たちのことも私は見逃さなかった。そこには肉も何もなかった。そうなのだけど。そうだけど。

 白樺の林は映像や写真の中でしか見たことがないけれど、かの木がもし枯れるならば枝はこのようなものではないか?燃やされた後にできた骨を目の前に、私が最初に考えたのはこんなことだった。不謹慎かもしれないが、綺麗だと思ってしまった。お互いが擦れるたびに鳴るかさかさとした音はとても軽い。燃えてしまった。人が、燃えてしまったんだよ。

 ぴっかりと白く艶やかな骨壺にぴったりと収まった。最後は頭蓋骨を蓋をするように置くそうだ。係の人の手つきはとても優雅。箸の使い方が美しい。箸の文化がない西洋は、さて、どうやって骨を収めるのだろうと思ったけれど、そうだ、土を被せるのだった。こちらは箸で、向こうはスコップ。壺は箱に収められさらに白い布で包まれる。ぴっしりと皺ができないような手慣れた美しい手の動き。私が新人にExcelの使い方を教えるように、その帽子をかぶったお兄さんも誰かから包み方を教わったことがあったのだろうか、なんてことを考える。れっきとしたお仕事である。敬意を。

 粛々と進められる儀式。そう、クロマニョン人だったかネアンデルタール人だったか、人ははるか数千年前に弔うことを覚えたそうだ。式は型があり順番がある。制御できない人間の気持ちを、あたかも制御するかの如く。実際それはとても有効だったと思う。タイムスケジュール。立会人。作法。滑らかに淀みなく流れる進行は、考える余地を人に与えない。ようやく一息ついたところで、相手はちんまりとした壺の中にいるのだ。ぶつける感情はその勢いを殺されてしまう。

 人それぞれだろうが、私はその日、他人の死を見ているようで実は自分の死と対面していた。自分では目撃することができないであろう、自分の死を。

 死ぬのは怖いな。改めて。誰かが死ぬのも、怖いな。私と関係がない人であっても。

 私はそのあと、絵画を観に美術館へ行った。

金利0円分割払いのいのち(20190514)

行きたくない場所トップ3は、上から順にペットショップ、動物園、水族館であり、私がはしゃぐ場所トップ3は、森、水族館、動物園、かもしれません。(20190514時点)

私は、檻に入れられたもの、水槽で泳ぐものを見るときまって悲しくなるのですが、悲しくなる自分に対しても嫌な思いをするし何もできないことが嫌だし、きっと野で海で駆けずり回り悠々と泳ぐ君たちが、一番綺麗なんだろうなと思うのは、きっと昔に読んだ上橋菜穂子さんの『獣の奏者』の影響です。

ペットショップに行きました。

一匹一匹ずつケージに入れられ値段が貼られ外界と隔絶されたあの子たちを見るのはやはり良い気分ではなく、私は終始むすっとしていましたが、値段のところに赤太文字で「金利0円、分割対応してます」の字を見つけたとき、どうにもこのモヤモヤを誰かにぶつけてしまいそうな気がして急いでその場から立ち去ることにしました。

その先で迷い込んだ小動物コーナーで、小さなケージに入れられたハムスターの値段が文芸本以下文庫本以上であることを知ったとき、こんなことやめてほしいなぁと嘆かないわけにはいかなかったのでした。

嫌ですね。色々なことが。ペットの存在意義を否定するわけではないし多くのペットが家族として愛されているのはわかっている一方で、きっと人間の都合で失われているいのちがたくさんあるだろうこともなんとなく。それを普段はまったく意識しないで過ごしている自分に対するモヤっとした気持ち。

 

ペットショップは苦手です。

死の記録(20190511)

 連日悲しい事故のニュースが続いている。

 どんな人が関係しているにせよ(それが未来ある子どもたちなのか激動の人生を生き抜いてきた高齢の方なのか、もしくは仮に極悪人であっても)人が亡くなることは等しく悲しいことなのだという認識は持っていたい今日この頃です。

 

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日記を書いているぞ!(20190509)

思考のスパークというか、私以外のものに対する視点がどんどん欠けているような文章になりつつある気がする。あくまで「気がする」なのだけど…。

とうとうタイトルにびっくりマークを付け始めました。どうやら超個人的、かつ、音の運び文字の羅列、意味があるけど消えてく方向に?

誰かに読まれている、という視点は、ある。でもそんなに読まれるわけではないのだなという謎の安心感(安心感と言っていいのだろうか)故に私は自分が想定できる範囲で他人を傷つけないような言葉を選びながら私の中のことや見ているものを書いている。

何故書くのか?という思いは、気がついたら体に溶け込んでしまった。当たり前のように文字を並べている。皆さんは書かないのですか。

 

GW明けから穏やかな気持ち、優しい生活を送るべく、ノートに日記を書いている。いつまで続くのやら。

日記の書き方は随分前に定型化してきて(しかし続かない)赤インクのペンでノートの左隅に日付を書き、同じく赤ペンで見出しを書く。昨日は「仕事のこと」「その日リリースされた好きなアイドルの新曲」「読んでる本のこと」の3部構成でした。黒のインクのペンで(その時の気分に応じてペンを変える)見出しに応じて思いつくことを書きます。見開きページの左半分にそこそこの文字を埋められると、今日もとりあえず今日であったのだということ、自分は生きているのだということをなんとなく感じることができて安心するのです。

疲れたな。責任あることをしたくない。人に迷惑かからない「わからない」は私を刺激してワクワクさせるけれど、人に迷惑かかる「わからない」はものすごくストレスだ。みんな消えて欲しいな(これは比喩です。あなたに言っているのではないよ)。

気持ち切り替えてやっていきましょう、と日記の最後に書いて私はノートのページを閉じました。今日は終わり。

 

日記(20190507)

ブログ書くのやめようかな、と思うことがある。時々。

他の誰でもない自分のために楽しく書いてるし、私という人間は放っておいても「喋りたい」人種みたいなので、媒体は変えても(例えばノートに日記をつけるみたいに)書き続けるだろうさ、と思う。

ただ今まで読んでた好きなブログが1週間、1ヶ月、半年と更新されなくなるのはちょっぴり寂しいな、なんて、ふと寝付けない夜に思ったのだった。プツッと途切れてもいいんだ。全然良い。私が寂しいだけ。

 

動かないと頭が働かない。人間には刺激が必要だということを実感する連休明け。と、同時に他者と会話することの疲れをきちんと感じる。

 

日記を書きたい。(これは定期的に思うこと)

万年筆が欲しいです。次のボーナスで買っちゃおうか。保留中。

町の雷鳴同好会(20190504)

 先輩は「雷は大嫌い」と言った。

 私は「雷大好きなんですよ」と言った。

 

 雷が好きだ。車のクラクション音も、電車のぷおーという音も、映画館やコンサートの爆音も好きじゃない私が、雷は好きだ。

 これらの音と雷、区別できるところがある。「光」だ。雷と自分の距離がゼロ距離の場合は多分そりゃあ驚くでしょうね。でも大概の雷鳴は光と共にやってきて、光より遅れてやってくる。だから心の準備ができるでしょう?だから大丈夫なんです。

 雷の気配がする。わくわくするね。風神雷神とはよくいったもので、太鼓をぼんぼん鳴らした神様が来るようなお祭りの気配。非日常的な匂い。荒れ模様の予感。わくわくする。さあさあ空が暗くなってきたぞ。現代科学の素晴らしきかな、雨雲レーダーで雨雲到達時刻を予想する。まだ大丈夫。私はジョギングシューズに足を入れ、靴ひもをぎゅっと結ぶ。玄関を出て、さあ走りましょう。ぐんぐん暗い雲が近づいてくるの尻目に走り出すと、さて私から近づいているのか向こうが近づいているのかわからなくなってくる。空がゴロゴロ言い出した。

 唐突に、先日観に行った美術館で展示されていた絵画を思い出す。

 「セメレ」デュオニュソスの母、ゼウスに愛された女性。策略に遭いゼウスの雷鳴にあたって絶命したらしい。雷は今も昔も等しく存在していたのかなぁ…と思うと、なんというか、セメレには悪いが楽しくなってしまった。昔の人にとっては雷とは本当に理解できないものだったのでしょうか。それこそ、天の裁きの象徴?

 町の雷鳴同好会。「町」とつけたのは、山深いところで体験する雷はまた感覚が異なるだろうと思ったからです。山の天気は変わりやすいですね。これから夏ですか。楽しみです。