ベランダの実験室

思考の記録です。

嫌なことについての文章(20190115)

  世界には嫌なことある。心底うんざりするようなこと。でもそこに対して自分は怒りとか憤りとか悲しみとか感じていないのではないか、って思ったのだった。

  どう足掻いても自分の理想となる世界が生まれないのはフィクションを、少年漫画を、読んでたら嫌でもわかることで、世界を思い通りにしたいと思うことはとても傲慢で無駄なことなのだといつからか考えるようになった気がする。それでも私はかなり我儘な人間なのだと思うけど。

  だから「こうあるべきだ世界よ」が裏切られ続けた結果、それは他人(と世界)に対する絶望に転じてますますの引きこもりを助長するしかなかった。私の場合は「変わんないな世界」が「変えよう世界」にならなかった。

  ということで、本当に嫌なことばかりなのだけど、嫌であることとそれに対して怒る事が完全に切り離されててこれは大丈夫なのか?と思っている。嫌すぎてもはや私の想像を超えてる。私の行動の選択肢にないことだらけなのだもの。でも私も結局同じことをしていないか?という内省は必ずセットになってくる。答えがわからない。どう、自分を点検していいかわからない。

  もう巻き込まれたくないし、語ることそのものが駄目な気がするし、多分核心からはどんどん逸れるから何もしない方が良さそうだけど、ではどうすればいいかわからない。

  私は私の個人的なところで戦うしかないのか。半径5mぐらいしかせいぜい対処できない。私がもし酷いことになったら静かにそこを去るのだと思います。捨て台詞の1つや2つを残して。正直に思ってることを言えば、人間ってそんなに劇的に変われることばかりではないし、だから酷い事があったら誰にも迷惑かからないように死んでくれないかな、それが叶わないなら転んでくれって思ってしまう。その人の長い人生の中で、出来るだけ幸福が減っていけばいいなって思ってます。この世界のどこかで。

  どうすればいいのだろうと思うけど、人間がもう少しきちんと自分を好きになって自分の周りにいる好きな人のことを考えて、さらにその人の好きな人のことぐらいまで考えられれば、世界は良くなるのだろうか、と思いながら私は大好きなタピオカミルクティーを飲んで帰りました。

氷が溶けかけたオレンジジュース(20190114)

 資本主義の巣窟みたいなところに行った。

 「資本主義みたい」と私が思うときに使われる「資本主義」はきっと私の中で自由に構成されてしまった定義に基づく資本主義だから、本来の意味ではないと思う。私が思う「資本主義」っぽいところに出かけた、ぐらいに捉えていただければと思う。

 別に嫌いではないのだ。むしろ好きで、毎回楽しみにわくわくしながら行く。ただ、帰るとかなり疲れる。まあこれはどこに行くにも関係なく起こる現象だから、その場所に行ったことで特別疲れるのかどうなのか、まだよくわかってない。疲れることは事実だが。

 資本主義の巣窟みたいなところで、オレンジジュースを買った。

 普段は全く飲まないのだけれど、何故か飲みたくなる。資本主義的な力が作用しているのだろうか(なんだ資本主義的な力って)。ジャンキーな食べ物が食べたくなるし、たくさんたくさん買い物をしたくなる。で、後悔する、ってところまでが1セットだ。

 オレンジジュースには氷がほどほどに入っていた。ずーずーと私はストローでジュースを吸い上げる。からからこらこら音がする。

 美味しいんだよなあ。なんでこんなに美味しいのだろう。アップルジュース、グレープジュース、そしてオレンジジュース。この3つは本当に美味しい。普通に飲んでも美味しいけれど、私のお気に入りはちょっと氷を溶かして薄まったジュースを飲むことだ。しっかりとではないけれど、ほのかに、というほどでもない絶妙な濃さ。誰も再現しようがないこの濃度を私は愛してやまないのです。

 私は夏でも冬でも飲み物に氷を入れたがり(体を冷やすのは良くないらしいってのは知っているけど)アイスコーヒーもアイスティーも氷を抜いてもらうことはまずない。ただ面白いのはジュース御三家は氷が溶けることを愛しいと思えるけれど、コーヒーや紅茶はそれが許せないのだな。味が薄まってしまうのだもの。だから私はなるべくおいしいうちにずーずーと飲んで、それでも飲みきれないときは味を諦めて渇きを補う単なる飲み物として頑張ってもらうのだ。

 氷が溶けかけたオレンジジュースは最高に美味しい。また会う日まで楽しみにしています。

どストライクなんてあるわけがない(20190112)

 ドストライクなんてあるわけがない。あるのは、ちょっとだけ似ているとか。ちょっと同じとか。そういうごく一部分の領域がちょこちょこ被っていたりやっぱり異なったり、それだけだ。

 

 私の好きなものについてそれ好きだよ、と言っている人の文章を読むのが私は大好きだ。それがブログの出発点。でも、その人は私ではないのだから、絶対相いれない部分があるわけでそれを発見するのと楽しめたほうがよかろう、と思っている。ましてや「ああこの人と私は違うのだ…」と意気消沈するなんて。でも時々落ち込む。ああ違うのだって。それではこの世界には私以外誰もいてはならない、ってことになってしまうではないか。

 ということで、Twitterのアカウントを分けることは考えてはいるけれど苦手です。要は自分を都合の良いように分節化したくないのだ。SNSの私ですら、私のある一面に過ぎないわけで、これ以上自分を分節化してもね。ただでさえ切り刻まれているし、そういうのが人間みたいなのだけれど。好きなものAと好きなものBと好きなものCと好きなもの∞で構成されている私なのだもの。もしかしたらある人は好きなものAに関する言葉に多く触れたいのかもしれないけれど、私はAを愛でたいときもあるしBを愛でたいときもあるんだ。一途×∞です。

 ドストライクなんてあるわけがない。そう言い聞かせて生きているのは、力を抜くとドストライクを求めてしまうからで、つまりは私が自己愛を拗らせていて尚且つ他人が嫌いなのだろうと思ってしまうのです。一体どうしたら。もう文章を書くことが自己愛を助長しているのではと思ったら私はどうやって生きていけばいいのだろう。自己愛万歳?自己愛の反復作業じゃなくてそれは記録の為です、とあくまで主張するのならば、では私はどうして記録したいの?

 他の人の文章の起源は一体何なのだろう、と考える休日です。

 

壊れたい。果てしなく。

  そこそこに元気であるが、ふとした瞬間に自分が自分であること、自分が文章を書くこと、考えること、喋ること、に意味を見出せないというか、何故私はここで呼吸し喋っているのだ!なんなんだ!と混乱する。

  その問いへの答えを、私は18歳くらいまでには既に獲得していて「意味などありません。ただそこで息をするのです」と自分を宥めながら生きているのだ。

  私は私であること。私はこんなことが好きなのだということ。チャレンジしてみたいのだということ。すべてつまらなくなり、壊してみたくなる。そんな瞬間は一時的なもので、すぐに日常の雑事に流されてしまうのだけど。

  こう、果てしなく壊れたい気がする。壊れる?壊れるねぇ…。壊れるとはなんなのだろう。何が不満なのか。もっと、もっと言葉にしたいというか。よくわからない。もっと潜りたいし、もっと…細部まで?ああ。ただただ頭に浮かぶんだイメージを言ってるだけなのでご容赦。

    私が私であることの限界というか、窮屈さというか、そうだね私は私以外の誰かになりたかったのだ。というか、私以外の誰かにもなりたかった。1度きりの人生、私でしかないなんてつまらなすぎる。できれば5人くらい「私」があればよかったのに。

  書いても書いても孤独。この際孤独であること、それを自覚し寂しがることは些事でしかないけれど、それでも孤独なのである。

  私が惹かれる言葉は「その人が」発してる言葉。その人の血肉。生きた、誰かの受け売りじゃない言葉。そういうものを集めたいなーとは思った。私も、そういう言葉を吐けたらいいのに。壊れたいな。もっと勉強しておけばよかった。私、学生時代何やっていたのだろう。そう思う今日この頃です。

  

問題がある私たち(20190103)

 私たちには問題がある。

 今日、ふとそんなことを私は考えていた。

 

 問題がある私たち。

 良い人ばかりじゃない。違うな。良いところばかりじゃない。人間には良いところも悪いところもある。問題もある。自分には問題があるということを知っている人はどれくらいなのだろう。他者の問題を指摘して、そこで立ち止まって、自分は?自分には問題がある?と考える人はどれくらいいるのだろう(盛大なるブーメランの予感)。

 私はあなたではないので、あなたの問題そのものを解決することはできない。解決の手伝いをすることはできるかもしれないけれど、まあそんな気持ちもない。

 薄情だけれど、私はあなたの不在を悲しまないと思う。でもあなたがいてくれた方が良いと思う。あなたの悲しみにも寄り添えないかもしれない。あなたの怒りや苦しみを理解することができない。だから私に何を言っても無駄なのかもしれないな。つまり、私は他人に興味がない?

 誰かに救われようとしないで。自分で自分を幸せにして。そう思ってしまったんだな。もちろん話は聞きたいしできる限りのことはしようと思うけれど、私だって今日を生きるので精いっぱいだ。

 その人は体重が28kgだと笑いながら言った。手足が棒のようで、私は見ていられなかった。じゃあ私が見たくないから、私があなたのこんな姿を見たくないから幸せになってくださいって言ったら、あなたは健康的であろうとしてくれますか?んー。違うな。それでは何の解決にもならない。

 問題がある私たち。問題があってもいい。せめて自分で生きようとしてください、ってことだろうか。あとは他人につべこべ言わないこと。私も言わせないこと。理解してもらおうと思わないこと。理解されたいと願わないこと。理解したいという声には耳を傾けること?

 生産性がない会話は嫌いだ(何を「生産的」と考えるかの匙加減が難しい)。わかりきったことを傷の舐め合いみたいに確認するぐらいなら、もっと楽しい会話が他にあるだろうって思ってしまう。

 

 これだから親戚の集まりは苦手だ。

日記(20181231)

 大晦日は家にいたくない。大晦日は外に出かけたい。ということで、今日は家を飛び出して街の中をカメラを持ちながら歩くことにした。

 

晦日の街


 大晦日(含む年末年始の休み)は街にあまり人がいない。多分普段よりたくさんの人で賑わう場所もあるのだけれど、基本的に人々は家に潜んでまったりしているのではないかと思う。
 普段は人々で賑わうけれど大晦日だけひっそりとする街を歩くと、私は不思議な高揚感を抱く。人がいないことが私を嬉しくさせる。それってどうなのだろう?と思うけれど、好きなのだからしょうがない。私のこの傾向は人嫌いなのだろうか。人を嫌っているというよりは、自分が見る世界を愛しすぎなのではないかという気がしている。

f:id:dorian91:20181231203104j:plain

こういう休みの時は基本的にビジネス街は死んだ街になっていてとても好き。

 

白髪ねぎ牛丼


 歩いてお腹がすく。おなかがすいてから食べる食事ほどおいしいものはない。空腹は料理をおいしくさせるスパイス。
 ビジネス街の中ひっそりと営業していた牛丼チェーンに入る。久々の牛丼だと思ったけれど、最近も食べたのであった。牛丼は好き。
 牛丼は世界を映す鏡のような気がする。日本の外食産業の中でもなかなかの低価格。労働者の為の牛丼。本当の現実はどこにあるのだろうと思う。少なくとも一等地の駅ビルの中の予算1000円超えのレストランにはない。都会の牛丼はなかなかに寂しい気持ちになる。でも、おいしかった。いつのまにか並盛でもおなかいっぱいになっている自分がいて、ああ、私も日々変化しているのだなと思った。

 

銀杏並木


 ぎんなんという食べ物のおいしさに気がついてから、銀杏並木に対する愛着は増したように思う。冷たい風に煽られながら歩道の脇に立ち並ぶ銀杏の葉がはらはらと地面に落ちていた。綺麗だなと思った。

f:id:dorian91:20181231203158j:plain

かごに溜まった銀杏の葉が気になったもので

f:id:dorian91:20181231203242j:plain

どこでも木々は綺麗だなー

 

 今日も明日も変わらない。しかし微妙に変化している。それが人生だと私は思っている。365日また生きるのかと思うと、別に死に焦がれているわけではないのに暗澹たる思いがしてくる。私の憂鬱にさせるのは、多分365日×24時間の重みだ。生活をしないといけないのだ。その重みを感じさせる大晦日が、私はあまり好きじゃない。
 今日は早く寝てしまおうと思う。寝たらいつの間にか今日が終わっているから。

 明日もまた同じように生きていきたい。

塩素(20181230)

 いつのまにか匂いが染み付いてしまった手のひらに鼻をあてる。鼻腔に懐かしい匂いが抜ける。あの日々を想起させる匂い。

 大掃除をしました。

 私は掃除が嫌い。大掃除も例外ではなく、普段は適当に誤魔化してしまうものだけれど。今年は何故か掃除をしようという気持ちになり、今日は風呂場に篭っていました。

 掃除といっても持ち物はカビキラーとゴム手袋とラップ。水垢についてはまた後日対戦を挑むこととして、今日のところは主にカビ退治となりました。

 成績は上々。黒ずみが減った風呂場を眺めながら入るお風呂は気持ちが良いものですね。カビキラーを撒きまくったので、手袋をしてるとはいえいつのまにか塩素の匂いが手についてしまったようです(それは危ないのでは?)

 塩素の匂いは、過去の匂い。私の好きな匂い。