ベランダの実験室

思考の記録です。

収集家(20190318)

収集家

本にペタペタと付箋を貼る私は、収集家。「んぐっ?」となった文章に出会うたびに、一枚また一枚と私は付箋を貼る。一冊読み終えたら付箋の箇所をもう一度読み直し、それでも「んぐっ?」となったら私はその言葉を大切に大切にノートに書く。一言一句間違えることがないように。

 

日記

日記めいたものを書いている。今日書いたのはこんなこと。

敷布団と掛布団の間に裸足を滑り込ませる瞬間が私はとても好き。下の布団のごわごわと上の布団のさらさらに、胸がどきどきする。この布の肌触りが好きなのだ。この愉楽を邪魔する人間がいたとすれば、私は何人たりとも許すことはないだろう。

眠ることは今はまだ嫌いじゃない。寝付けは以前よりは悪くなったけれど(昔は文字通り数秒で意識を手放していた)それでもよく眠れる。眠りたい。寝ます。ただ最近、30秒くらい自分の心臓が止まりそうな気分に陥るのがちょっと嫌い。

喋りたくないという状態について考える文章(20190315)

喋りたくない

喋りたくない、という状態に今、まさに陥っている。そのことについて考えてみよう。

まず、喋ること自体は好きも嫌いもないと思う。思うけれど、喋ることはできるし楽しさを感じることもある。だけど、喋りづらいなと思うことはよくある。それはどんな時か。

自分にとって大切なこと、上手く言葉にできていないことは喋りづらいと感じる。手探りで自分の考えと周囲の状況とを照らし合わせながら喋るからだ。

逆に自分にとって既に言葉になっているもの、答えが内容が用意できているもの、あとは心底どうでもいいと思えることについては、よく喋ることができる。驚く程にぺらぺらと。

喋りづらいと、喋りたくないは、全く異なる。喋りづらいを拗らせた結果が私にとっての「喋りたくない」だ。

 

喋りづらいの中身

考える。考えながら、探りながら喋る。

相手の反応を見ながら喋る。それが私が伝えたい内容と相手に伝わる内容、その中間地点を探る。最適解か?常にその照合作業をしながら喋る。でも実際はそれが上手くできていないのか「お前の言ってることはよくわからん」と言われることも多い。マジか。

だから、相手の反応が掴めない時はかなり混乱する。伝わってるのか伝わってないのか判断がつかない、という状況はさらなるシミュレートが必要ということを意味するからだ(この人はどんな人なのか?私の場合だけこのような反応なのか?他の人の場合は?飽きている?うんざりしている?わからない?わかってる?)。混乱すると疲れるので喋りたくなくなる。

次。喋る。反応がある。考える。キャパオーバー。この場合だ。反応があった時に、思考がぐるんぐるん加速して連想し拡張して収拾がつかないとき。オーバーヒートして処理が落ちる。それは例えば自己に関する時。自分の欠点に思考が発展する時に起こりやすいことだと思う。

自分の至らなさ、それは他者の目にはどのように映っているのか、ではそれをどのように改善しなければいけないかを考えてしまう。要は自意識過剰な部分が剥き出しになってしまうのだ。

 

ここまで整理してみた。今私はとても喋りたくない。疲れました。改善のための道はまず分析から。

停滞(20190314)

幸せになってください

情に熱い人間だとは思っていない。淡白で支離滅裂で基本的には自分のことを考えている人間で、人間関係の機微には疎いという自覚がある。同情しないし面白いと思えないことは理解したいと思っていたい、人間に冷めている人間だ、と。

ということで、具体的な個人の幸せを願う熱量が私には無い。例えば身近な例だと家族とか恋人とか(それはいないけど)友人とか。皆さんはそれを日々願っているのですか?一度私は聞いてみたい。

反対に、時々ではあるけれどごく個人の対極、ぼんやりとした「人間」の幸せを願わずにはいられない瞬間がやってくることがある。例えばコカインに手を出した人間とか、例えば他者に尊厳を蹂躙されて傷ついている人間とか。私はその人たちを存じ上げないし、出会うことも無いだろうし、仮に出会ったらその瞬間から幸せを願うことは無いのだろうけれど、幸せではない人に幸せになってほしい瞬間が時々やってくる。

幸せになってくれないと、私の寝覚めが悪いからだ。

私はその人たちを救うことはできない。全員を救うことができないが、救うための活動は多分できるのだろう。でも私はそれをしない。キリが無いからだ。そんな面倒くさがりで薄情な自分を見たくないという理由で(無関心な自分)私は私以外の人間の幸せを願わずにはいられない。なんて利己的な考え方なのでしょう!自分の無力さを忘れさせてくれるのは、全員が幸せになることなのだけど。だから最近は落ち込む。色々と。

 

ごく個人的な話

個人的な話をこれからもずっとしていきたい。最近書けてないけれど。それが全員に通用するものじゃない、拡張する物語だとは到底思えないことを。

 

荷物が多い

12時の陽光、私はスマホと財布、イヤホンを装備して歩く。バッグとコートに解放された私のいかに身軽なことか!このまま踊るように日暮れまで歩きたいという気持ちを殺し、私はまた無機質な建物の中に戻っていく。次の休みは絶対踊ろう。そう思って数週間が過ぎた。

叫び、及び問題提起(20190306)

内省的思考を伴わない人間及び自分がどう思われているのかという視座にまったく欠ける人間はとりあえず私の周りには近寄らないでくれ、という暴力的な私の叫びは、そのまま自分にブーメランとして返ってくる呪いであり、私はこの十数年間、この呪いを持て余して生きてきた。私だって、ね…実践できてるわけじゃないのですよ。

厳しすぎる。

常にゼロの状態で、聴こえること目に映るもの、自分の行為それら大概がマイナスであるのだから、それは生きづらいし自分も周りも不幸にするだろうことはよくわかっている。自分一人でそれらを飼い慣らそうとして事実表面上はできているから話は厄介なのだ。私は社会的生活をまっとうに送ることができている。たまに思考が爆発してとめどなく落ち込む夜を除いて。

大変ズボラな癖に、一部はとても潔癖。

他者に、世界に寛容であれ。

どうすればそんなことができるのだろう。私がとった方法は、1つは「無関心」、1つは自分が見たいもの聞きたいものをなるべく摂取すること、だったのだと思われる。それでとりあえずは生きていけてたけれど対症療法という気がしないでもない。

私はどうすればいいのか。

とりあえず今日は問題提起に止めよう。

脳のごくごく浅いところで(20190302)

 脳のごく浅いところで、生きているの90%を消化している感じ。そんなのすごく嫌なのだけれど、なにせ浅い部分の思考活動なので傷つかない。大概の情報は入ってこない。穏やかで何もない日々。それを望んでいたと思うのだけれど。浅くて無責任でそんな自分に吐き気がする。

爪とペン(20190228)

 爪を塗るようになったことは以前書いた。

 

dorian91.hatenadiary.jp

  そうですね。めちゃめちゃに気分が上がる。ここまで爪を塗らずによく私生きてこれたな?と思っているくらいに今私は楽しいのだけれど、このたびすごい発見をしました。

 文房具を愛する人。手書きで書くことに愛おしさを感じずにはいられない人。ペンが好きな人。いいから爪を塗れ。

 ペンを持つじゃないですか。ノートにさらさらとペンを走らせます。目線は自分の書く文字に自然と向けられますね?爪が見えます。ぴかっと光って発色する私の爪。うっとり。

 ペンを持つ。私の手。文字。言葉。爪。とんだ自己愛でしょうか?この営みが素晴らしいと言わずにはいられないのです。もっと早くこの楽しさを知っていればなぁ…。まあいいさ。悪癖(悪癖とまでは言わないでおくか、癖です癖)を矯正するためにもう少し時間がかかるけれど、ちゃんと良いネイルポリッシュを買って爪塗りを楽しむのだ。

 

サンリオの袋に呪詛(20190225)

サンリオの袋を持っているのが印象的な人だった。

50代から60代くらいの茶の背広を着た男性。その人は電車の座席に座っていて、鬱陶しそうに隣の人の肩を自分の腕で振り払ったのをたまたま目撃してしまった。

何もあんなに思いっきり振り払うことは無いのになぁ。冬は各々防寒具を着ているから着膨れするし、男性なら肩と肩がぶつかるくらいよくあることじゃない。嫌なもの見てしまったなぁ….と心の中でため息をつきながら、私はサンリオさん(便宜的にそう呼ぶことにする)をほんの少しだけ観察してみた。

といっても見るからに危なそうな人ではないし、何故にサンリオ?(キディランドとかそっちの方の可愛い袋)誰かの土産?孫?とかウダウダ考えながら、私は手元の本に目を落としてサンリオさんのことは忘れてしまった。

いくつかの路線が乗り入れている駅に停車した。

時間は真ん中に差し掛かり降りる人はもういないだろうと思っていたら、サンリオさんが突然ガバッと席を立った。で猛然とドアへ向かっていった。不意打ちに近かったので、本を両手で持っていた私はサンリオさんに押されてよろける。前に座る人に若干倒れこむ形になってしまい思わず「すいません」と私の口から声が漏れる。ぬー。岩みたいだったなサンリオさん。乗車率は80パーセントぐらいの車内、あの硬さで突っ込むかー、ぬー。

とつまりは私は押されて不快になったのでした。そう、これは愚痴です。

「すいません」と思わずこぼしてしまった言葉は、私なりの処世術で。とりあえず人あたりは良く生きましょう。店員さんにもちゃんとお礼を言うのです、が私のスタンスであって。これは悪魔に魂を売り渡してるわけじゃない。自分をすり減らしているわけでもない。私から失われるものなどありは…しない?しないよね?

ほんとうに?

「すいません」は流石に駄目だったのではないか、もっと不快な気持ちを表明するべきだったのではないか?とちらりと一瞬でも考えてしまったがために、私はこんな文章を書いています。

どうしたって私はきっと同じ振る舞いをしてしまうから、私はサンリオさんが夜道を転んで痛い思いをすればいいのにな、とだけ祈って小説の続きに戻ることにします。