ベランダの実験室

思考の記録です。

大好きなPascoのCMは、信仰対象

ということで。

私はPascoのCMが好きなのです。(両手の手を握って目をきらきらながら)

www.pasconet.co.jp

映画『かもめ食堂』とか『プール』とか『めがね』とか好きな人は、好きでしょ?はい、好きです。パンはそれほど食べません。ごめんなさい。

PascoのCMの世界観は、もう私の中では「正しい」になってしまっています。それが「おいしくご飯を食べましょう」「ディテールを慈しみ、丁寧に生きましょう」みたいな教えで本当に良かったけれど、こういう「正しい」には良い事でも悪い事でも注意しなければいけないとも思っています。だからPascoのCMを見るたびに嬉しくもなり「ややや負けないぞ」という気分になります。抗いたくなるのです。

PascoのCMのように生きたい。もう会社生きたくない(とまでは思わないけれど。こういう暮らしもなかなかに大変だ。結局会社生活が一番楽な気がする)。テレビ要らない。バラエティ番組よ滅びろ。料理はきちんと作ること。お酒もほどほどに嗜んで。エプロンは自分で選んだものをつけること。毎日部屋の掃除をするし、無駄なものは買わない。自分で自分を満たして、夜は22時までには寝ること。朝は日の出と共に起きて、適度な運動もして。

 

・・・。

 

宗教じゃないですか。

いいえ、憧れです。

でも、憧れは憧れのまま。私はいつまで経っても朝起きれないしどたばた身支度をするしテレビにどっぷり漬かっているしエプロン持ってないし掃除しないし夜更かしするし。憧れであればあるほど、私の現実は変わらないのでは?と思ってしまうほどに。Pascoの生き方は私からは程遠いものです。

思うに。モデルルームと同じなのです。モデルルームは静的でいつまでもモデルルームのまま。人はそこで生きない置物。だから美しく秩序が維持されている。でも生きることって矛盾だらけだし動的で、とてもじゃないけれどある一定の状態で標本のように固定することなんてできないんです。CMの世界はCMの世界。そしてCMもモデルルームも標本も、ある一瞬、ある一場面を切り取ったものでしかない。時を止めることは実生活ではできないのだから、ああいった完璧な状態を作ることはものすごく労力が必要そうです。私にそれがありますか?いいえ。ないです。

 

ということで、私はファンタジーについて考えています。私は現実が嫌いすぎてフィクションが大好きな人間ですが、あまりに幻想に耽溺しすぎではないですか?生き延びるため少々多めに見てはいましたが、やりすぎは良くない。PascoのCM、どうしよう。私は小林聡美さんにも深津絵里さんにもなれない。私は私であるしかない。結局その問題にぶち当たるのです。

いつか、何の湿り気もなく、軽く言えるようになろう。「私、PascoのCM好き」って。

 

式の当日(20181118)

結婚式当日になりました。私の結婚式ではありません。憧れだった人の結婚式です。

 

色々言いたいことはあります。例えば何故愛の誓いの場に自分が参列しなければいけないのか。誓いとは何なのか。神の前で何を誓わなければいけないのか。何故このような超個人的な儀式の場に居合わせているのか。理解ができません。愛とは何なのか。幸せとは何なのか。何故一対一なのか。男と女なのか。おめでたいことなのか。何故。このような形式しかないことを時間と手間とお金をかけて執り行うのか。わかりません。

披露宴ではコース料理が振舞われ、3皿に1回くらいのペースで「次は誰の番かしらね」という言葉をかけられます。その度に何と答えていいものやら回答に窮してしまいました。誰の番も何も「ナチュラルに死にたい」と、ふかふかの椅子に座りたくさんのグラスと食器を前にして私は途方に暮れているというのに。

そういうものであることは知っています。だから私はきちんと行儀よく椅子に座って、基本的には目の前に出された物珍しい食べ物を観察することに集中して、時々談笑までするのです。これが私の譲歩の姿勢です。招かれているのに譲歩も何もない。不遜な態度だと、きっと私の家族は怒るのでしょうけれど。

一般的に誰かと結ばれることは素晴らしい事なのでしょう。美徳であり人間が通過するべき1つの地点なのでしょう。でもやっぱりよくわからないのです。生きることって、こんなに大変なことをしないといけないのですか?

思い出が満ち満ちているのも落ち着きませんでした。スライドショー、スピーチ、手紙、涙。私の話をしているわけではないのに「放っておいてくれ」と思いました。過去。過去。過去。蒸し返さないでくれ。美談としてまとめないでくれ。そうです。人生こんなに楽しい事ばかりじゃないはずなのです。なのに、この空間には楽しい事喜ばしい事しかありません。それがなんだか気にくわないのです。変ですよね。私の人生がこんな風にまとめられたら、私なら激怒するでしょう。私がこの場にいてなんだか落ち着かないのはその辺りに理由がありそうです。子どもっぽいなぁ、私。

 

私の憧れの人はよく笑っていました。幸せなのだろうと思います。頭がよく、優しく面白い人。結局私は慣れることがないままで、きっとこの先も慣れないまま薄いつながりを保っていくのでしょうけれど、身内の贔屓目で見ても素敵な人なのではないかと思います。

あの空間にいたときはまったく心が白紙だったけれど、今こうして言葉にまとめながら少しずつ白紙だった心に文字が刻まれていくようです。スライドショーにも、写真にも、スピーチにも思い出話からも零れ落ちた、私だけの記憶を今晩だけは振り返ることにしましょう。本当は、あの空間できちんとできなければいけなかったことだけれど。

空っぽのままとりあえず形だけは保っておいて、中身は後からやってくる。そういうことは今後少なくしていかねば。周りの空気にあてられてペースが崩れてへなへな笑みを浮かべてパニックになりながら生きるのはいいかげんやめよう、私。

 

マイペースでいつもゆったりしていて大人っぽくてかっこよくてとにかく揺らがない、私のお兄さんみたいな人。幸せそうだったので、それが何よりです。

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唐揚げとご飯のバトル弁当(20181116)

昔から鶏のからあげが大好きである。鶏のからあげ、好き。私はいまだに「ほっともっと」のことを「ほか弁」と呼ぶけれど、そのほか弁を食べる時は必ず「から揚げ弁当」を買ってもらっていた。

ほか弁のから揚げ弁当の素晴らしいところは、から揚げも美味しいと思うけれど、から揚げの下に敷いてある無味のスパゲティだと思っている。これが素晴らしい。今も健在なのだろうか。付属のレモン汁と胡椒をかけて、ちょっとだけレモン胡椒味になってから揚げの油が染み込んでるような違うようなそんな麺を食べてる瞬間が好きなのである。デフレ、不景気なこの世の中、肩身がせまいスパゲティさんはその麺の量を少なくしていて私は非常につらいものがある。悲しい。

から揚げ弁当が好きなのだけど、この度仕事場の近くに素敵な素敵なから揚げ弁当を出してくれるお店を見つけまして。とても嬉しい。

何が良いって、から揚げvsご飯な弁当であること。大きなから揚げを4つ入れた発泡スチロールの容器と、同じサイズの別な容器にはこれでもかと詰め込まれた白米。から揚げ、と、ご飯。そして時々のキャベツ(から揚げの下に敷いてある)と漬物。潔いこの姿勢に惚れ惚れしながら、私はから揚げとご飯を交互に口に運ぶ。肉、白米、肉、白米。またお米の炊き加減も絶妙。私好みのかためな感じ。しっかりとした食感なので、かなりお腹いっぱいになるお弁当。これを贅沢と言わずなんと言うのか。

私は鶏肉だけでなく白米も愛するので、白米が鶏肉と対等に存在感を放つこのお弁当を、勝手に「唐揚げとご飯のバトル弁当」と名付けることにした。ネーミングセンスが無いので、より良い名前を思いつくまでの暫定版。

毎日食べるのもそれはそれで惜しいので、しんどい週の真ん中などに自分を鼓舞する意味も込めてそのお弁当を買いに求める。

こういうことがあると、人生は楽しい。

六本木・青山墓地・渋谷(20181114-15)

六本木の美術館に行った後に青山と渋谷に移動したいなと思った。電車に乗るのが面倒くさいのでgoogleマップを広げる。アプリによれば30分程度で行けるみたいなので徒歩で移動することにした。徒歩で1時間切る場合は、疲れてなかったり天気が良い場合は歩くことが多い。

歩きながら、もし仮に私が誰かと生活を共にするとして、とりあえず私のこの傾向を理解してくれる人と生活を共にしたいなと考えた。できればの願望です。もちろんこれは私個人の嗜好で、誰かと一緒の時は電車やバスに乗るけれど。歩くのも結構楽しいのだ。誰かとこの時間を共有できればいいのに、と思いながらすたすたと歩く。

六本木は苦手ではないがまだよくわからない街だ。とりあえずここで生きている人は優雅な生活をしてそう、という偏見が拭えない。大きなプードルを連れて散歩している人がいた。可愛い。六本木は実は風通しが良い街だと思っている。背の高いビルはそれほど多くない。高い建物はなんとかヒルズとかなんとかミッドタウンぐらいではないか、とおぼろげな記憶から判断する。

歩いていると墓地が見えてくる。途端に木々が目に入るようになる。それが好き。季節は11月で、カラッと乾いた葉が風に乗って地面を撫でる音を聞く。気持ちがいい。青山墓地はどちらかというと自然に絡め取られてるようで緑がたくさん見えた。墓石について考える。

私が死ぬとして、埋葬をどう依頼するか。私は、葬る側の誰かにとって一番楽な方法であれば嬉しいと思っていて、加えてお金をかけずパパッとどうにかしてほしいような。本来墓石を買うはずだった分差し引きで浮いたお金で美味しいものを食べて養生してね、以上の何が残せるというのかな。現世に私という人間がいたことの証明?拠り所?みたいなものが万が一でも欲しいのであれば、どこかの山の大木を私の墓石にしてもらえれば。

と思ったけれど嘘です。というかよくわかりません。よくわかるぐらいまでちゃんと生きて、遺言を残したいなと思います。

墓地の間を通る道路を歩きながら、楽しいなぁと思う。そのうち墓石は見えなくなり、また街の中を歩く。

表参道らへんに到達した。その少し前から、バッグや装飾品のお店が見えるようになる。表参道にあるブランドのお店たちは、日本の同ブランド他店舗の中でも比較的気合が入ってる店舗なのかなと思うと愛おしくなってしまう。買えない身分ですが。ツンと澄ました顔の中にそれを維持することの大変さみたいなものを勝手に感じて感情移入してしまう。

青山ブックセンターに行く。実は初めて。ひっそりと確かに、本の最後の砦として存在する佇まいで一気に引き込まれた。定期的に行きたい。

渋谷へと場所を移す。渋谷は難しい。好きでもあり苦手でもある。とにかく人が多いのが苦手かつ通行人の歩行が結構自由で神経を使う。よく人にぶつかって「すいません」って言ってしまう街、という印象。でも面白くてよくわからない街なので好きです。

 

街歩き、楽しい。

日記(20181113)

相変わらずの戦い。今日は比較的良好。調子も良い。朝は頭が痛かったけれど。珍しい。2か月に1回くらいのやつ。

調子は良いが、世界に一人だけという気分。それは調子が良くないのでは?いやいや調子は良い。だから余裕をもって外を見渡せる。考えることができる。すると己の空虚さにぶち当たるしかなくなるのだ。

 

働くと何も無くなるのだなと思う。ただでさえ何もなかったけれど、唯一時間はあったのに。その時間さえ無くなってしまった。一体他の人はどうやってこの空虚さを処理しながら生きているのだろう。知りたい。

それでもやっていくしかないという気持ちで1日を終え、また泥のように翌朝布団から這い出す。働く間は結構楽しいのだけれど、それが終わるともうダメ。何もない。何もないから何も書けない。

 

とここまで書いて、こういう文章の上塗りの上塗りで私という人格が形成されているとしたら、やっぱり書く内容はもう少し考えたほうが良かろうか、と思うのだった。

 

さてさて。夢も希望もなく。私はどこへ行く。

机の上の紅茶ラテが飲めない(20181112)

私の自宅の机の上には、今朝開封した紅茶ラテがある。紙パックのラテでとても甘くて量が多い。冷蔵庫に入れようと思ってたのに忘れてしまったことを思い出す。それほど気温は高くないから、今日中ならギリギリ飲めるだろうか(割と私はそういうことをする。胃袋に自信があるのだ)

 

あーあ。紅茶ラテ飲めないなぁ…。頭の10パーセントの部分で思いながら、私は早足で家路を急ぐ。

 

なんでこんなに取り乱しちゃうのだろう。石がゴロゴロと坂を転がるように、感情に歯止めが効かなくなっちゃうのだろう。他の人はそんなことにならないのに。なんで、私は。目が熱くなって、喉がゴロゴロして、息がうまく吸えなくて、浅く息をしながら私は夜道をひたすら歩く。悔しくて。悲しくて。無様だと思いながら。

 

私は今日、悲しいことがあった。怒った。

 

感情ではち切れそうになることがある。それはギリギリまで満たされたコップに一滴の水が落ちるように。きっかけはなんでもいい。とにかく気がつかないうちにコップで満たされた悲しみと無力と嫌気と絶望の水に最後の一滴が落ちるとき、私はひどく取り乱してしまう。

そうなるとしばらくは感情の激流が止まらなくて、他人に対して不義理な行いをしてしまうこともある。それで幾ばくかの信頼と友人と居場所を失ってきたのに。懲りもせず。

機嫌が悪くなる。ムッとする。無視する。話を聞かなくなる。何も喋らなくなる。いつのまにか消えている。露骨に態度に出る。

子どもか。

そうなのだ。私は、幼い。

 

悲しくて、許せない。でも同じことをしてしまう。全然静かで穏やかな人になれない!!!

 

何もする気がなくて、紅茶ラテを飲む気力がない。沈んだ気持ちで、台所のシンクに茶色の甘い液を流すのだろう。

 

悲しい?

 

宇多田ヒカル「俺の彼女」(20181111)

意味を理解する前に旋律が綺麗だと思って。

なんやこの曲!?とガバッと目が覚めすぐに調べ「俺の彼女」というタイトルだと知って。アルバム『Fantôme』に収録されている。

 

「俺」と「彼女」の視点が切り替わりながら流れる音楽。「俺」が駄目すぎるよという感想も目にし「その通りなのかもしれない」と思うのだけど、綺麗なストリングスがそうさせない。「俺」も「彼女」もそれぞれ不足を抱えていてそれが切実に迫ってくるのだ。

「俺」の不足は

俺には夢が無い 望みは現状維持

いつしか飽きるだろう つまらない俺に

 「彼女」の不足は

本当に欲しいもの欲しがる勇気欲しい

最近思うのよ 抱き合う度に

 「俺」ひどいやつだなぁ…と思いながら聴いていても、「俺」がぽっと自分の不足を吐露してしまうところでこの曲の盛り上がりが来てしまって私の「俺ってひどいやつだなぁ」という気持ちが引っ込んでしまうのだ。

「俺」に迫りたい彼女と、自分のつまらなさを自覚している分「彼女」が自分の奥にやってくるのを鬱陶しがる「俺」。この対比が見事でオチも素晴らしく。ある男女のすれ違いをそのまま掬い取りつつ、人間の核心に迫り、しかも劇的に関係も変化せず今までの日常が進んでいくことを暗示するけどもしかしたら変わるのかもね?という、本当に絶妙な加減の歌だなと思いました。

 

 

こういう日常の切り取り方、してみたいなぁと思いました。

 

俺の彼女

俺の彼女

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