ベランダの実験室

思考の記録です。

考えられない

考える体力が落ちた。

衝動とは、内から沸くエネルギーであると痛感する。

 

頭が痛い。違う。思考が靄がかかったように淀んでいる。むずむずする。痒いところに手が届かないもどかしさ。音楽を聴いていると全然ものを考えられないのに、世界の音をそのまま聴くのが怖いから自分の好きな音楽で上塗りしたくて、音楽を耳元で鳴らし続ける。煩い。でも、聞きたくない音を拾いたくないから、煩くても音を鳴らす。

考えられない。書けない。自分はこのまま死ぬのだろうか、と少しだけ怖い。緩やかに死んでいくのか。このまま何も考えられなくなるのか。

穏やかな日々も良い。不満は少しはあるものの日中は働き、夜はへとへとになって床につく。同じことを5日間繰り返したら、2日間の休み。特に何をするわけでもなく、どこに行くわけでもなく、2回寝て、また5日間の労働。

それ自体は、まあ、別に良い。問題は、それを「死にながら」こなすのか、多少呼吸をしながら自発的に観察心をもって行うかの違い。私はこのままだと、死んだまま生きていくことになるのだろう。

考える体力が落ちている。色々なことが面倒になり、楽しいと思えない。続かない。困る。それは、嫌なのだ。

 

生きたい。

お金とかどうでもいい(どうでも良くはない)。

働くことの問題でもない。

私がどう生きるかの問題なのだ。

 

死にながら生きたくない。

あゆのおじいさん

とある町の「松坂屋」の交差点で、私は「あゆのおじいさん」を見た。

 

私はその交差点で、赤信号が青になるのを待っていた。大型連休の半ばにぽっかりと生き残った平日。時刻は、朝の9:00くらい。ぐんぐんと気温が上昇する気配がする、天気の良い朝だった。

あゆのおじいさんは私の右斜め前で同じように信号を待っていた。

何故「あゆのおじいさん」なのかというと、このおじいさんが浜崎あゆみさんのパーカーを着ていたからだ。何故そのパーカーが浜崎あゆみさんのものだとわかるのか。それは、パーカーの背の部分に「ayumi hamasaki」とプリントされていたからだ。年もプリントされていたから多分ライブグッズのパーカーではないか。

私は、信号が青になるまで、じーっとそのパーカーを見つめることとなる。

 

何故そのおじいさんはあゆのパーカーを着ているのか。

そもそもそのパーカーが「あゆのもの」だと理解して着ているのだろうか。

おじいさんはそのパーカーをどこで手に入れたのだろうか。

ライブで買った?それとも誰かからもらった?古着屋で見つけたとか?

 

「あゆのパーカー」1つで、限りなく妄想が膨らむ。「モノ」とは物語を纏う存在だなとこういうとき強烈に感じる。

単なる雑踏の一部。街中でうごめく灰色の影のひとつでしかなかったおじいさんが、あゆのパーカーを着ていたことでたちまち色彩を取り戻す。面白いな、と思った。

 

信号が青に変わる。

おじいさんは黙々と横断歩道を渡る。私も渡る。

次第におじいさんの姿は灰色に戻り、私は今日見ようと思っている映画のことについて考え始めた。

 

ハム入りポテトサラダ

私はほうれんそうとベーコンのソテーに信頼を置いている。

そう言ったら、意味が分からないだろうか。大丈夫だ。私も意味が分からない。が、私は確かにほうれんそうとベーコンのソテーを信じている。ほうれんそうとベーコンがバターで炒められ、ほうれんそう独特のえぐみ(なのかな?)とベーコンの塩気とバターのまろやかさが生み出すある種のハーモニーを信じている。

大概の洋風ファミレスには「ほうれんそうとベーコンのソテー」というメニューがあると思う。つまり、ほうれんそうとベーコンの組み合わせは王道であり、テンプレートであり、型なのだ。

私のマイルールとして「自分が考えていることは珍しいことじゃない。絶対誰かが考えたことがあることだ」というのがある。感覚としては「私が抱いた疑問はYahoo!の知恵袋に絶対載っている」に近い。そのルールに則ると、ほうれんそうとベーコンのソテーに信頼を寄せている人は、この世の中に絶対存在する。さらにはきっと「ほうれんそうのお相手はベーコンでなければならなかったのか」「ベーコンはほうれんそうと組まざるを得ないのか」ということまで考え、検証してくれた人もいると思う。その上で、こんにちまでほうれんそうとベーコンはパートナーであり続けているのだ、と。

私は幾たびの検証の目を潜り抜け、ここまで生き残ってきたものに敬意を表する。ほうれんそうとベーコンに次いで、私は今日、新たに敬意を表すべき存在を発見したのだ。そう。タイトルにもある通り「ハム入りポテトサラダ」である。

 

ちなみに、私は、ポテトサラダにハムが入ることもあるのは知っているけれど、実際に家庭料理としては食べたことがない人間だ。うちのポテトサラダにはハムは入らない。

が、何があったのか、今日目の前にでんと置かれたポテトサラダにはハムが入っていた。一口。おいしい。こちらもやはりハムの塩気が良い味を出している。ポテトのまったりとした舌触りに、ハムの塩気が合うのか。こんなにおいしいのだから、今度からはポテトサラダにはハムを毎回入れたいなぁ...と思った。

 

ハム入りポテトサラダも、ほうれんそうとベーコンのソテーも、生き残ってきただけのことはある。おいしい。栄養学的に理にかなっているのはわからないけれど、もう奇跡だろこの組み合わせ、という食べ物がこの世の中にはたくさんある。例えばエビやアボカドとマグロの組み合わせ。こちらも盤石すぎる。例えば生ハムとメロン。私は食べたことがないので評価できない。例えばイカオクラとか。

決まり切ったものに、私は挑戦をしたくなる。この堅牢すぎる絆をどうにか断ち切りたくなる。隙があればばっさりと切るつもりで、私は鋏を手にこれら強敵に向かうけれど大体勝てない。私が負ける。こうして、明日も明後日もほうれんそうとベーコンのソテーは生を永らえるだろう。

 

この見事な調和を、人間はどのタイミングで発見したのだろう。ハム入りポテトサラダに唸りながら私は考える。数学的発見や新たな生物の発見と同じくらい、ハム入りポテトサラダのぴったり具合を見つけることはすごいことだと思う。知りたい。人は食べ物の中にいつ、どのように、調和を見出すのか。

 

 

なんて、よくわからないことを考えていましたとさ。おいしいね。ハムが入っていると。

スクラップブックを携えて

そういえば、「自分が確かに変化してきて今ここにいる」という感覚がまるで無いな、と思った。

文章を書くのは嫌いでは無いが、日記は続かない。備忘録として何かを書いてもそれを定期的に見返すことがない。たとえ見返したとしてもそこに感想を抱かない。その当時のその感情はその時の私のもので、今どう感じるとかその時の感じてたことについて何か言いたいことはあるかとか、全くない。

その理由として、多分私が過去に対する諦めを抱いているから、だと思う。後悔しても過去は変えられない。過去の私の結果が今の私で、問題を解決するためには今なにかをしなければいけない、と思っているからだ。行ってしまうと過去なんてどうでもいい。

あの頃の、綺麗な瞬間を取り出したいと思う。みすぼらしく意地汚い感情を形にしたいと思う。でもそれだけだ。そういう意味では、私は「収集家」であり「分析家」ではないのかもしれない。心の何処かに設置した私だけの棚に、あらゆるものを収めたい。ぶっちゃけて言うと、中身より集めること形にすることが大事で、保存方法とか後で鑑賞することは二の次だ。


ということで、この文章も1つのコレクションにしたい。




疲れている。疲れていると自覚できないぐらいに疲れている、気がする。

疲れているのは働いているからだ。ぶっちゃけて言うと仕事は滞りなく進み、私個人がものすごい問題を抱えているわけでもない。凄まじい嫌悪を抱く人間は周囲にはいないし、逆にものすごく尊敬できる誰かがいるわけでもない。「将来」のことを考える。自分が何をしたいのか考える。自分が何を好きなのか考える。ふとした他人の言葉に気持ちが悪くなる(多分私の「気持ち悪くなる」反応の方が過剰なものなのだろう)。で、疲れる。どうにかしたいと思う。どうにかする力が自分にはある。でも、できない。それが疲れる。

働くことは、案外簡単だ。元々やりがいとか夢とか捨てて諦めて今の仕事をしていて、思いの外悪くないし、私の関心上ずーーーっと知らなかっただろう領域の一端に触れているのは実は面白い。できないことがたくさんあるので、自分のペースでできるようになりたい。


こうして言葉にすると、自分が何に疲れているのか。疲れる必要なんて無いのではないか?という気持ちになる。少しだけ疲れが和らぐ。


これまたぶっちゃけると「仕事に忙殺される日々」も「淡白な職場」も「自分の関心外の領域」も、私はただ収集したかったのだと思う。

特に好きなものもなく、誰かと楽しみを共有できるわけでもなく、本当に何も無い私がそれなりに人生を前向きに生きようとした時「とりあえず目の前のことをハサミでカットしてノリをつけてスクラップブックのページに貼り付ける」ぐらいしか方法が無かったのだ。他の人は人生をどう生きているのだろう。


文章も、たまにぽつぽつと撮る写真も、上手くなりたいなと思うイラストも、弾いてみたいなと思うピアノも。スクラップブックを作る際の「ハサミ」でしかないのかもしれない。


なるほど。少し言葉にできた気がする。私は、私だけの棚にスクラップブックを適切に収めたいのだ。

ブレる

ブレるのもまた、意図的に作りだすのが難しいなと思った。

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建設現場のクレーンを見るのが好きだ。

同時に、都心なんかに赴くと、日本の人口は確か減少傾向なはずなのに新たな建物が次々と建ちあがるのが不思議でならない。住む人が少なくなっているのに建物を建てるのか...と思ってしまうのだ。もちろん、そんなシンプルな話ではなく商業的な建築物かもしれないし建物は老朽化するものだから、新しい建物を建てることは何もおかしくない。

労働とは何か考える。物が満ちている現代社会で、それでも新しい物を作り続ける必要があるのか。むしろ働くために物を作っているのだろうか。などなど。

もどかしい。忙しい。もっとゆっくりと考えたいことがある気がするのに、いざ考えようとすると手のひらから零れ落ちる水のようにどこかに行ってしまう。もどかしい。イライラする。ブレる。それが生きることなのか。ブレる。世界を捉えたい。ブレる。むむむ。

取り込む

私は、私のものになると途端に寛大になる。

例えば「私が」決めたことなら甘んじて受け入れる。私が買ったもの。私が選んだもの。私がやりたいと思ったこと。私がやってもいいと思ったこと。私の領分に持ち込めば、なんでも勝ちだ。

でも。

他人に指図されること。選択の余地がないこと。私の意に反してること。受け入れ難いこと。これらに対しては、私は我慢がならない。

自分がOKだからといって相手も大丈夫だ。そう思うことに対して虫唾が走る。それは多分、他人が大丈夫だと思ってて全然大丈夫じゃないことが、色々あったから。同時に他人からしてみるとありえないことでも、案外平気なこともある。


結局は限りなく個人的な問題で、その人のことはその人しかわからない。いや、その人ですらわからない。


というわけで、私は限りなく個人的なブログが好きです。

照り焼きチキン味のパン

私の7か条、と呼べるものでは無いが、意識していることがある。

その1つに(いや、2つか)「寝ることと食べることはおざなりにしない」というものがある。

その信条を守って実際良いことがあったのか知らないけれど、生きる上での行動指針の1つにはなっているだろう。信条があることで、迷った時にはつぎの一歩を決めやすいものだし。


そして、今日、私は自分が意識してた軸から外れる行いをした。そう、照り焼きチキン味のパンを食べてしまったのだ。

毒じゃあるまいし「食べてしまった」なんて酷い言い方だ。その通りである。が、実感としては「食べてしまった」に近いのだから仕方ない。


私には苦手な味がある。好んでは食べないけれど、目の前に出されたら顔1つ変えずに淡々と食べられる味がある。

つまるところ、私は「照り焼き」というものがなんとなく苦手なのだ。マクドナルドのテリヤキバーガーは多分1度も食べたことがないと思う。甘たるいのが苦手なのだ。同じ理由でめんつゆも苦手だ。

それはさておき。苦手と自覚している照り焼きチキン味のパンをどうして食べたのかと言うと、ものすごくお腹が減ってたからだ。そして夕食にありつく為にはもう少し時間がかかることもわかっていた。加えて、帰宅間際を絶妙に狙ったかのように作業が降りかかり、へとへとだったのだ。

選択肢は3つ。1つめ、何も食べず帰る。2つめ、食べ物をコンビニで買う。3つめ、コンビニに並立してるパン屋さんに寄る(タイムサービス中)。コンビニはなるべく行きたく無い。お腹すいた。疲れた。ということで、パン屋のドアを開ける。

閉店間際のタイムサービス中ということもあり、置いてある品数は少ない。惣菜パンが食べたい。無い。あるのだけど、棚の目の前にはおばさんがトングをカチカチ鳴らしながら居座っていてよく見えない。後ろからは別のお客さん。なんとなくこの場からすぐに立ち去らないといけない気がしてソワソワしてしまう。えいや、ままよ、ということで、私のトングが掴んだのは照り焼きチキン味という経緯です。マクドナルドのレジに並べないのと同じ感じだ。後ろからお客さんが来てしまうと私は途端に慌ててしまうのだ。困る。


ということで、私は冷めた照り焼きチキンをベンチに座って頬張るのです。

…。うん。そう。照り焼きなるものはこういう味だったわ…。そして、私は自分が食べることを大切にしてたことに気づくのです。


それはつまりこういうことです。

とりあえず起きている時間はそれなりに活動的でありたい。せっかく生きてるのだし起きてるのだし動いているのだから。余すことなく自分のエネルギーを消費したい。そうではないと勿体無いではないか。

で、動く為にはエネルギーが必要だ。寝ないと力が出ない。食べないと力が出ない。だから私は両者をおざなりにはしたくないのです。いい加減にすると後でツケがまわってくるし、単純に生産性が落ちるのも嫌だ。

あとは、食べることも寝ることも私にとって楽しみの1つってことも大きいだろう。日々頑張ってるのだから、ちゃんと寝たいし好きなもの食べたい。妥協してしまったら、私はどこで何を楽しみにすればいいの?


照り焼きチキンを食べてしまった。他のを頼めば良かった。心なしかしょんぼりしながらこれを書いてます。でも、同時に思うのです。こういう偶然、不可抗力から新しい世界が拓けるということもあるのかなと。今回はあいにく照り焼きチキンの評価が変わるようなことにはならなかったけど、照り焼きチキンを手に取ったことは否定したくない。


そんなことを思ったのです。

ああ美味しいお米が食べたい。