潜水日記

思考の記録です。ブログの名前を変えました。

日記(20190914)

色々書きたい気分だったので書いている。

If I was a murderer ...

 自分が殺人犯だったとして、私は潔く自首をする人間かどうかについて考えていた。

 自首するような気もするし、案外隠ぺい工作をして白を切ろうとするかもしれないし、罪の意識に耐えられなくて川に飛び込むかもしれない。どれもあり得そうだったから、できることならそのような事態が起こらないことを願うしかなかった。無力である。

 自分の浅ましさに押しつぶされそうだった一日は世界の全てがモノクロに見えた、食べ物は砂を噛んでいるような味がした。一転、翌日は嵐が去ったことで脳みそが過活動状態になり、先ほどからページをめくったりペンを走らせたりキーボードを叩いたりと落ち着かない。色々と極端でバランスが危うい自覚はある。それでもなんとかやってきてしまっているのだからいいのだろうか?当事者としては結構苦しいのだが…。

 

真面目な読書

 手帳に読んだ本をメモするようになってから、私史上一番真面目に本を読んでいる気がする。この場合の「真面目」とは「通勤では絶対本を読むこと」「読んだ本の感想を書くこと」「月10冊以上読むこと」を満たしているということだ。追加で言えば、ちゃんと延滞することなく本を図書館に返却できているということも大事だ。真面目に本を読んでいる。何故かというか、スマホをいじりたくないからだ。スマホを操作するよりは本を読んだ方が自分にとってはいいのではないか?と思っているのにスマホを操作する自分がいて、そのギャップがとてもイライラするからだ。煙草をやめたいと思っているのに、やめられない、みたいな感じだろうか。私は煙草を買ったことも吸ったことも無いのだが。本を読んでいる。ただそれだけ。それが良いとか悪いとかではなく、強いて言うならぐっと心を掴まれる言葉を見つけられると嬉しい。捕獲した言葉をノートにメモしている瞬間が楽しい。虫取りみたい。標本である。

 

混乱

 駄目だ。何も感じられない、と思う。だから生きていけているのかもしれないが、色んな声や感情に対して思いを寄せられない自分になってしまって(いや、元々そうだったのかもしれない)怒ることもないけど共感もしない。喜べない。悲しめない。それが、結構つらい。つらいって、なんだ。なんなのだろうね。人間としての欠陥を感じるとかそういうことじゃなくて、悲しい。

 何も感じられない、というのは私以外の他者に対する現象で、対私としては「見る」「聞く」「匂う」「味わう」「触る」の五感でキャッチした情報に対する自分の反応を、飴玉を口の中でもてあそぶようにして味わうことはできている。それは元々得意なことではあったと思う。だから私は文章を書いているわけだ。だけど、対人に関してはその機能を意図的にセーブしているような気もする。確かに小学生ぐらいに「もうこれは無理」と思った記憶がある。気が狂うと思った。だからなのか。

 というようなことをうだうだと相変わらず考えている。15年くらい同じ問題を繰り返していない?そうだよね。こちらそういうブログです。

 

結論

 世界のことを書こう。なんかかっこつけた言い方だけど、マジでしんどくてもう無理ですってなったときは毎回辿り着く結論。他人のことがわからなくても、この先どうなるかわからないし、生きているってことは変わることができるという余地が残されていることでもあるからとりあえず生きなさい。それが9月1日に死のうと思っている人へのメッセージだったし私自身に向けた言葉であった。で、今回もそこに行き着いてしまう。雨のことが書きたいし、サンドイッチのことが書きたい。誰かのことは書けなくても、それ以外のことは書ける。それでじゅうぶんよくやっていると、誰か言ってほしい。いや、私が私自身に言えって話?

赤信号は止まりますか(20190912)

目の前の横断歩道は5mくらい。もしかしたらもっと短いかもしれない。ぼーっとしていたものだから、私と同じ進行方向に向かって同じペースで歩く人たちがスピードを緩めることなく渡ることにつられて私も渡りそうになる。おっと、と歩道が途切れるところぎりぎりで止まったのは、やはり目線より少し上の信号は赤だったから。そして律儀に信号が青に変わるのを待っている女の子がいたから。

ピンクの自転車、ピンクのヘルメット、その女の子は立派な優良ドライバーだった。私と女の子をするすると追い抜いて横断歩道を渡っていく人たち。彼女はこれからも嘘と建前と綺麗ではない現実を見ていくのだろうなぁ…と、それは仕方ないにせよ少し悲しくなる。

赤信号は絶対に止まるべし!とは思わないけど(思わないのだ)、ルールに忠実であろうとする子どもを前に率先してルールを破る気にはならなかった。渡っていく人々に対しても積極的な感情は湧かない。ただ、あの30秒くらいの間、建前と本音が入り交ざって苦い味がした。それだけが、書きたかった。あの女の子はいつまで優良ドライバーでいてくれるだろうか。

嵐の後(20190909)

わからない、のか

 今日ほど何があったのかわからないまま終わる一日も無かろう。

 帰る時に電車から見えた夕焼けが妖艶な色をしていて、それが唯一今日のお土産。空が燃えていた。

 わかんねえっすよ。わからないことだらけだ。すごく不安。わかりたい、わかってほしいと思ってブログもしているけれど、結局は「わからない」ってことが顕在化しただけだった。意味がないとは思わない。わからねえわからねえと言いながら今後も生きていくのでしょうか。そうでしょう。怖いな。

 わからない?わかろうとしないの間違いでは。

 

昼間からのお風呂

 最近よく読む作家、江國香織さんはお風呂が好きであるようだ。私はお風呂が嫌いなのだけど、唯一、夕方まだ日が暮れていない時間から浸かる湯船はすきだ。めちゃめちゃに。労働あがりのビールの素晴らしさは理解できないのだけど、それと同等の存在ではなかろうか。次の旅行は観光をしなくていいから個室に露天風呂がある宿泊先がいいな。そしてコンビニでレジ袋いっぱいに買いたいもの買って部屋に引きこもる。本は持っていくけど気が向いたときにしか読まない。音楽も聴かない。ノートは持っていく。そうして昼間っから露天風呂に浸かるのだ。海が見えてもいい。山が見えてもいい。何も見えなくてもいい。労いとしての旅行は寂しいから、これは慰安旅行などではない。絶対そんな風には呼ばない。

 

ロコちゃん

 アニメ「とっとこハム太郎」のロコちゃんが眩しくて仕方がない。

「今日はとっても楽しかったね。明日はもっと楽しくなるよね、ハム太郎。」

 彼女のまっさらな未来への希望は、私を恐怖させる。私も今日から傍らのヤドンポケットモンスターに登場するポケモン。私のは全長20cmくらい)に語り掛けながら眠ろうかなーなんてことを考える。

 

嵐の前に(20190908)

水たまりを切る

 久々に自転車に乗った。なんとなく、ではなく、噛みしめながら。青空を映した水たまりがところどころに生まれていて、私はさぁーっとタイヤで空を切る。一直線に引かれた水の線は数秒後にはスゥ…と消え、また綺麗な青空を映し出す。嬉しくなって必要もないのにたくさんの水たまりに侵入した。

 

クリーニング

 クリーニングに出したい衣類があったのでクリーニング屋に出かける。私は行きつけのところしか行ったことがないので、一般的なものなのかはわからないけれど、クリーニング屋さんのレジが好きだ。「にんじん」とか「かぼちゃ」とかではなく「ネクタイ」とか「コート」とか、独特の項目が画面に映っていて、お店の人は手早く正確に衣類の情報を打ち込んでいく。そのお店の人は昔から客商売としてはぶっきらぼうで、ちょっと怖いのだけれど、手早く衣類を巻いてビニール袋に詰めるさまはちょっとかっこいい。何事においても職人さんっぽい人は動作が的確で好ましい。

 

ぬいぐるみ

 クリーニング屋さんから衣類を受け取ってこいというおつかいも頼まれてしまったため、一抱えはあるぬいぐるみのような大きさの衣類を持って帰ることとなってしまった。私はその足で図書館に向かう。盗む人はいないだろうとも思いつつ、クリーニング済みの衣類を適当な場所に置くこともできず、私はビニール袋に入ったコートやら礼服やらを前抱えにし本棚の合間をてくてくと歩く。ぬいぐるみを持つ文化がないのだが、私はぬいぐるみを抱えたいと思っている。ああ、このサイズのぬいぐるみを持ち歩くというのはこういうことか、疑似ぬいぐるみ体験。流石に私のような年齢の人間が電車で巨大なぬいぐるみを持ち歩くわけにもいかない。どうして?悲しいけれどそういうものなのだ。読みたい本、今読んだ本がいい本がすぐに見つかる。嬉しいなぁと思う。

 

コンパクトデジタルカメラへの憧憬

 確か私は、高校に進学して最初のHRで重松清の『きみの友だち』を読んでいた。今思えばちょっと肩の力が入りすぎな選書で、でも当時の自分としては心細い新学期に対する最大限の武装だったのだ。『きみの友だち』は私にコンデジへの憧れを与えた。主人公の恵美ちゃんがデジカメで空の写真を撮るのだ。彼女の真似してガラケーで空の写真をたくさん撮った。その写真のデータは手元には無くて、当時の携帯の電源をつけようとしたらバッテリー切れだった。充電器はどこにあるのかわからない。以来、スマートフォンを手に入れても、一眼レフを手に入れても、私はコンパクトデジタルカメラを持ち続けているしそれで写真も撮る。綺麗に撮るというよりは、撮りたいが先に走りシャッターを押す感じだ。記録としてのカメラ。これから嵐がやってくる。雲が豊富な空は予感に満ちていて、不謹慎かもしれないがわくわくする。夏が終わるのだな、と今日初めて思った。

 

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かぼちゃプリンは偉大(20190905)

かぼちゃプリンは偉大

 朝、始業前にコンビニスイーツを食べる。時々。今日はセブンイレブンのとろ生かぼちゃプリン。私はかぼちゃそのものは嫌いの部類に入る食べ物で、だってほくほくで甘いのだもの!がその理由だけど、デザートにしたらめちゃめちゃ好きな食べ物だ。かぼちゃのデザートといえばプリンだしスイートポテトだと思います。愛すべきかぼちゃ!卵と牛乳のプリンとはまた異なる味わい深さ。普通のプリンがぷるんと喉を通り抜けてじんわりと胃に溶けるのに対し、かぼちゃのプリンはそうはいかない。もったりまったり滑らかで結構質量がある。喉をどどどどと通る。かぼちゃのプリンは強いなぁと思う。確かさがある。そういうところが私は大好きです。かぼちゃのプリンがあるのだもの。それだけで世界に絶望しなくて済むのはありがたい。

 何もない。何もない?

 目の前に広げた手のひらをぼうっと見つめて途方に暮れる時、それが私のおやつタイムなのです。自分の存在、世界の確かさがぐらぐらと揺れる時、私は思い出す。かぼちゃプリンがあるじゃないか、と。こうして細かな予防線を張ることを覚えたのは、やっぱり働き始めてからだろう。昔はやらなければいけないことが毎日やってきて、それを消化していればなんとかなって、周りも実は私と同じように困っていたり悩んでいたりするのかな?と思えたからこそ乗り越えられたところもあったけれど、社会人、みんなビールのことしか考えていないような気がして(とてつもない偏見です知ってます)ぐらつく自分はダメなのだろうかとか、一体他の人は何を考えて生きているのだろうとか考えるときりがない。

 書くことについてもわからなくなった。やりたいこと、はわかるけれど、そこに体がついていかないような。透明になりたいと願っていたけれど、世界について何も考えられない、そんな種類の透明は求めていなかった。それならぴりっと紙の切れ端が肌に擦れて鮮血が滲むような、感受性が欲しい。

 とにもかくにも、かぼちゃプリンは素晴らしい、海に浮かんでいるブイそのもの。生きる道しるべ。これが言いたかったのでした。セブンイレブンのとろ生かぼちゃプリンです。

旅の便り その2(20190901)

帰りの乗り物に揺られながらこれを書いています。無事に全行程を終え、あとは帰るまでが遠足ですよ!安全に帰るのみです。

今日は私にとっては特別な日でした。365日で一番好きな日です。昨年の今日は、実に荒んだ気持ちで過ごしていました。だから一年後の今日(まさに今日です)こんな思いをするのはやめよう、そう心に誓ったことを今でも覚えています。

この一年で変わったことといえば

以前より本を読もうと思うようになったこと、

美術館なる場所に行くようになったこと、

爪を塗り始めたこと、

毎月10枚写真を選ぶことも始めました。それぐらいです。あとはあまり変わりがありません。

誰かから祝われるより、私が私を一番祝いたい(祝われるのは苦手です)。もし心変わりをしなければ来年もどこかに行きたい。誰かといるのではなく、私一人で過ごしたい。そう思います。そう思えた、素敵な旅になったと思います。

 

以下は、さらっと私が思ったこと。

 

画一的である一方でローカル

無印良品スターバックス。ロフト。マクドナルド。見慣れた看板を見つけた時、ここは見知らぬ地ではあるけれど、まったく知らないわけではないことを確認し安心する。結局待ちの時間は見知った店に入ってしまい何かに負けたと悔しい。

今回2つの都市に出かけたけれど、2つとも異なる交通マネーを利用していて面白かった。記念に発券してしまいたいくらい。無印良品と交通マネー。そしてお土産。画一的なものと、その地特有のもの。縋り付くようでその地特有のものを見せろという都合の良い消費者気質を感じてしまう。土産物もそういえば苦手だ。センスのいい土産を買いたいからだ。私の家族にも土産を買う。スーパーで売っているような、なんてことないお菓子を買うとめちゃめちゃに喜ぶので、スーパーに行く。車文化を痛感する。歩行者が私しかいない。たんまりとしたお菓子と、個別に包装され箱詰めされ、さらに包まれたお菓子が同じ値段というのはなんとも。

 

芸術はその時代の人間の想像力の最先端

アートなるものを見るのが目的であった。面白かった。作品一つ一つを鑑賞する前とした後で世界が変わるということ。これが芸術なるものの素敵なところなのだとちゃんと思う。作品それぞれに問題意識がある。「問題意識」とはっきり言えなくても、何かしら、ある。多分それは市井に生きる人々も感じていることで、ただアーティストのすごいところはそれを削り出す、炙り出す、浮き彫りにし形を与えてしまうところなのだろう。それを見て、聞いて、触って、感じて、鑑賞者自身の中の問題と共鳴する?

 

今後へ向けて

  • 体(動かすのは自分の体です)
  • お金(軍資金があった方が自由です)
  • スマホに甘えない勇気(できるだけスマホを触りたくない)
  • 食べること(その土地のものを食べなくてもいいと思うことも必要)
  • 習慣(宿泊するにあたり、自分の癖や習慣が少し見えて面白かった。)
  • 身軽(荷物はできるだけ少なく)
  • 学ぶこと(勉強したくなる。何を?)

 

動いて食べると眠くなるね。ぐっすり眠れそう。

 

 

旅の便り(20190830)

旅が苦手である

私は旅に何かを求めすぎてしまう、例えば自分を劇的に変える何かを。でも、一番の理由は他にあるのではないかな。バスに揺られながら(バスで移動中です!)なんとなく考えていたのは、旅とは日常よりも人生の「一過性」みたいなものを強く感じさせるからではないか。それが私は苦手なのではないか。胸がキュンと締め付けられて呼吸が浅くなってしまうのではないか。

時の流れは不可逆である。一度過ぎ去ってしまったものを再現することはできない。知ってはいるけれど実感を伴わない。毎日とは同じことの反復で作られているものだから。

でも旅はちがう。同じ旅はできない。今通るこの道も、もう一度歩く機会があるか。私の場合は「無い」。「もう一度」がないことを感じさせるから、私は旅の扱い方が今でもわからない。

 

ペンギンの腹

もふもふとした白いお腹ばかりが頭の中にイメージとしてあったけれど、水の中で泳ぐペンギンのお腹は銀色に輝いてとても綺麗だということを知りました。それだけで今回の旅は大成功で、危うくペンギンのぬいぐるみを買いそうになってしまいました。白のもふもふだったのでやめました。

 

高速道路

旅が苦手だし高速道路は嫌いだった。だって終点を知らないもの。いつまで灰色の道路を見つめていればいいの?終わりがわからないということは、人生を考える上では救いかもしれないけど、高速道路で考えるなら苦行だった。私個人としては。だけど、今なら文字が読めるし日本地図も知っている。その気になれば手に持っているデバイスで調べることもできて、退屈な山々の名前も地名の由来も私は手に入れることができる。だから、高速道路が嫌いではなくなりました。これも大成功!日本は山がたくさんあるのだという当たり前のことを、感じる旅です。

 

ベルトの効用及びワンピース

うきうきしすぎるあまりベルトを忘れた。最初は大丈夫だろうと思ったいたが、どうも気持ちが引き締らず、夜遅くまでやっているディスカウントストアで買ってしまった。この一部始終もすごく面白かったのだけど割愛。ベルトをつけるとやはり気が引き締まります。Tシャツにジーンズという楽な格好です。

恥ずかしい話だとは思わないけど、やはり恥ずかしいのだろうか?私を恥ずかしくさせる「何か」を憎みはしないが、難しい。私はワンピースなる洋服を一着も持っていない。橋を渡る。その瞬間、風が一気に川をなめるのを感じた。ワンピースなる服を買ってもいいのではないかと思った。青天の霹靂。