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ベランダの実験室

思考の記録です。

憂鬱な野郎が心に忍び込んできた時の対処法

 タイトルの通りです。ここ1週間ほど比較的テンション高めに日々を過ごしていたツケが週末の今日になってやってきました。テンションというのは上がることがあれば下がることもある。ジェットコースターだって位置エネルギーが高ければそれだけ速度も速くなるでしょう?違うっけ。できるだけその上下の幅を抑えるのが策ではあるけれど、上がってしまうものは仕方がない。また這い上がるために思いつく限りの策を挙げます。

 

さっさと寝る

 まずはこれ。さっさと寝ることは非常に有効な策です。私は睡眠については何の悩みもないのでそれを活かす手はありません。眠ることが容易いのにだらだら起きているのは、そりゃあ調子が悪くなる一方です。さっさと寝なさい私。

 

食べる 

 これも大事。できれば食べることに集中して「ああこの鮭美味しいなぁ」と思えたらこちらの勝ちです。明日も生きていけます。好きなものを食べて気分が回復する性質の持ち主なら尚効果的か。あいにく私は好きなものを食べても元気にはならないので、食べることそのものに集中するようにしています。

 

着替える

 着替えることも大事。パジャマのまま家にこもりっきりにならない。家に引きこもるのは仕方ないにしてもきちんと洋服に着替えること。スウェットなど楽な服ではないものを着ると尚良し。ジーパンとTシャツだけでだいぶすっきりする。

 

浴槽を洗う

 「水に流す」という慣用表現にもあるように、具体的に水を使うことも効果的。風呂洗い、食器洗い、車の洗浄、洗濯など、水を使って行える作業をしていると気持ちもぐっと楽になります。まあその作業をするまでが大変なので、日頃から習慣づけていると良いですね。私は綺麗なお湯を張ってお風呂に入るのが好きなので、強制的に風呂掃除をするように日々の作業に組み込まれています。

 

カフェに行く

 カフェというものはサイドメニューに手を出さなければ、比較的手ごろな値段で居心地の良い場所を手に入れることができる素晴らしい空間です。場所や時間を見極めて、人ができるだけ少ないカフェと時間帯を選び、気に入っている珈琲やらなんやらをオーダーし、そこでとりとめもなく心に浮かんだことを紙に書いていると、だいぶスッキリします。

 

料理をする

 これも効果的です。もはや食べるためにというよりは、自分の事を忘れるために調理に没頭するのもありです。餃子を作るのが今のところ最も良いです。具を作り皮で包む作業をすると無心になれるし、おいしくてお腹が満たされるし。

 

外に出る(ただし誰もいないところへ)

 外に出かけるのも良いです。ただしあまり人がいないところの方が良いです。そこを間違えると、出かける前より悪化させて帰宅することになります。気分が落ち着いているときにいくつか場所を見繕っていると、こうして余裕がないときに行動するハードルが下がるので良いです。

 

買い物をする(注意)

 ちょっと危ないけれど買い物をするのも良い。特に買いたいものが大体決まっていると良い。危ないところは、全然成果がなくて帰るような事態になったとき。買い物の満足感が得られるならば買い物は効果的そう。

 

落ち込んでないときに対処法をリストとして作っておくことが大事

 日頃からこんな憂鬱な気持ちにならないように予防線を張っておくのが一番大事だと思うけれど、そうはいってもいつ何時どんなことで落ち込むかわからないのも正直なところです。ちなみに今日私が憂鬱な野郎の侵入を許したのは、知り合いが「この後食べに行く用事があってさ~」と言ったことからでした。その知り合いが悪いわけでは全くなくて、明らかに私の側の問題なのだけど、にしても落ち込む。

 

 今日はさっさと寝ることにします。憂鬱な野郎が夜のうちに私の心から出ていったくれることを願って。

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焼き鮭の味を美味しいと思えなかったら私はもう終わり

 タイトルの通りです。焼き鮭の味を美味しいと思えなかったら、私は死んだも当然だなってことです。

 

 今日食べた焼き鮭がおいしかったのです。ふつーのスーパーに売っているなんてことない鮭で、何もせずに焼いただけの鮭。だけど超美味しかった。もうこれでいいじゃん、ミシュランとかどうでもいいから焼き鮭食って生きていければ、もう幸せじゃんって思ってしまった。美味しいかった。適度な塩加減。焼きすぎず、身が柔らかにほぐれ、口に含むとじゅわっと塩気と甘みが広がる。白米と一緒に食べればもう完璧でしょう?これ以上に何を望むわけさ私は。

 

 こうして鮭がうめーなーって思えないような、余裕のない生活。あるいは、舌が肥えて鮭なんて大したことないよなんて万が一思ってしまうような人間にはなりたくないな。そんなことを今日は考えていた。

↓こんな綺麗な盛り付けで食べたわけではないです

本当は間違っているんだ日記

 今日は「本当は間違っているんだ日記」です。

 タイトルの由来は穂村弘さんの『本当はちがうんだ日記』です。

本当はちがうんだ日記 (集英社文庫)

 「本当はちがうんだ」という言葉のリズムが今の私にはぴったりくるので、参考にさせていただきました。今日は「間違ってる」ということについて書きます。

 

 

 間違っている、ってなんだ?って話なのですが。何が間違っているのかというと、そう、「私」なんです。私が間違っているんです。

 

 

 私は思いこみが激しい人間。思考がどんどん勝手に進み妄想が広がり、周囲の認識との差ができやすいような気がする(これもまた思いこみ)。思いこみが激しいというより、「思考の閉鎖性が高い」という表現がしっくりくる(これもまた思いこみ)。他者と全然交流しないので、思考がガラパゴス化しがち(これもまた思いこみ...)。思い込み激しい人間は、思考をもってドンドン突き進みます。で玉砕します。私はうろ覚えの記憶なのですが親から「調子に乗るな」的なお叱りをよく受けていたような気がしています。「図に乗るな」「驕るな」というよりは、「おだてられて得意になってはしゃぐんじゃねーぞ」的なニュアンスかと理解しています。子どもの頃ですからね。気分のむらがあるので、勢いづくとドンドン突っ走っていってしまう特性が私にはあります。上手く活用すれば、思わぬエネルギーを生み出すものでもあります。

 思いこみ激しい人間の私は、大体間違ったことを言っている。そう思った方がいいんじゃないかなって、思いこみの激しい私は最近ふと思ったのです。間違っているってのは、自分の存在そのものに対する疑問、最悪自己肯定感を一気に喪失するようなものではなくて、リスク対策の感覚。

 私はいたって真剣に物事を考えているけれど、それって本当に正しいのかしら。正しくないだろうなぁ、という感覚。最初から間違うことも、誰かを騙すつもりもないけれど、私は間違っている、という感覚を持っていた方がいいのではないかな、って思うのです。自分は。

 

 一方で、何かを発信するということは、何かが残るということです。言葉にしろ文章にしろ、発信したことは絶対何かしらの形で残ってしまう。私の間違ったことは間違ったままなのです、悲しいことに。私は間違ったことの重みに時々耐えられないことがあります。ああ、もう今はそんなこと考えてない。私のその考えは間違っている…。でも発信された情報そのものを変えることはできず、訂正するしかありません。生きるというのは、そういう意味では訂正の連続なのかもしれない。

 

 私は間違っています。でも間違おうと思って間違っているわけではありません。正しくないです。でも、いつも真剣です(多分)。

 

 生きることは間違うこと。生きることは間違いを訂正し続けながら間違っていくこと。そんなことを思いました。もちろんこの文章も間違ったことばかりです。

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人生の方向性

 好きなことを思いっきり愛でたい。

 言葉を尽くしてその対象について語りたい。

 日常のささやかな物事に目を向けて、それを愛おしいと思いながら生きたい。

 

 自分が何に喜び、何に悲しむのか。そういうことを考えていたら、今のところ私の人生の方針はこういうことになった。こういう風に生きられたらいいなぁということが言葉にできたら、自分のなかでモヤモヤしていることが少しずつ消えていった。人生の方針が1つの判断基準になり、テーマになったからだ。ああつらいと思うことでさえ、愛おしいと思おうとする。経験則から言って、しんどいこと、みっともないことも振り返ると妙なスパイスになって人生に彩をあたえることを知っている、というのもある。

 

 人生の方針は可変的だ。日々自分に問いかけながら更新していくものだ。人生は壮大な暇潰しなのだから、何ができたとか何ができなかったとか何が劣っているとかそういうことを考えるぐらいなら、面白がった方が楽しい。

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小さなことでエネルギーロスしないで

 パンプスを新調しました。

 今日はそこから「小さなことでエネルギーロスしないで」という話をします。

 

 パンプスを最近になって買いました。実は4月の初めにも私はパンプスを買っていました。1カ月そのパンプスを買って、1カ月小さな小さな「しんどい」を重ねて、もうこれは無理だと思ってこの度新しく靴を買い換えることにしました。

 普段の私はスニーカー族でして、動きやすく走りやすい靴を好んで履きます。ヒールのついた靴がめっぽう苦手で、慣れなくて、ついついスニーカーに安住してしまうのです。新生活になりスニーカーばっかり多用するわけにもいかなくなり、私はきちんとしたパンプスを買うことにしました。自分に合ったパンプスを買ってためし履きもしたはずなのですが…ダメだったようです。

 何がダメって、早い話は靴ずれです。といっても、靴を新調した場合どんな靴でも数日は靴ずれに悩まされるのがデフォルトでして、その程度で収まるなら今回新しく靴を買う必要はなかったのです。何がつらかったって、外反母趾気味の親指の付け根がひどく鬱血してしまったようで、1週間経っても2週間経っても患部にあたることに代わりはなくて、全然治らず悪化の一途をたどっていたことでした。一歩踏み出すだけで痛い。帰宅するころになると、あまりに痛んで足の親指全体がじんじん痛む始末。普段に0.5倍くらいの速度でしか歩けないなかさらに疲れた体をひきずりながら帰ることがあまりにつらくて、もう買い替えようと思ったのでした。

 外反母趾を意識して買った靴は、まだまだ履き始めなので靴ずれができましたが(笑)それ以外の履き心地は良いことこの上ない。以前のパンプスだったら歩くことすらしんどくて、寄り道もしたくないほどだったのに、これからはたくさん寄り道もできるようになるでしょう。

 

 些細なことです。靴を替えるだけです。でもそれだけで、日々のパフォーマンスはちょっと上がる。それが積み重なればきっと大きなエネルギーが生まれるんだろうなぁと思うのです。いや、逆かな。些細なマイナス感情も溜めこむと大きくなる。侮らないで、ちゃんと取り除いて。例えばつまらない同僚の話を聞くことだって、私の100%のエネルギーのうちどれぐらいを消費することになるのでしょう?その分もっと素敵なことに使えそう。

 あとは、私にとっては「服を選ぶ」ということも「歓び」よりは「しんどい」物事の1つ。服を選んで楽しくなるのもわかるのだけど、それ以上に選ぶこと、服について考えることはエネルギーを消耗することなんですよね。

 

 と、いうことで、今日の学び。エネルギーをもってかれる嫌なことはしっかりと取り除くなり対処するなりすること。

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【サクラダリセット】#6「WITCH, PICTURE and RED EYE GIRL 1/3」感想

 この春から始まったアニメで、なんとなくずっと見続けているのが「サクラダリセット」。異能力物のお話が好きってこともあって惹かれたわけだけど、このアニメ、情報量が多いし解説しないしシュールだし主人公たちの思考が超人じみていて共感できないことが多くて、なんでこのアニメ見てんだろって我ながら思うけれど、多分それは私がこのお話のことが好きだからです。

 物語に共通しているキーワードは「思考するかどうか」ってところであるような気がする。6話で、管理局の中枢にいながら外界と物理的にシャットアウトされている女性「魔女」が登場し、春埼と会話する場面。

 

(「魔女」)「あなたは人のどこを好きになる?」

春埼)「思考のパターンのようなものです」

 

というところ。思考するということが人間らしさであり、そのパターンの違いがその人らしさ?確かに、私も人の思考パターンはとても気になる。

 この「魔女」という人の能力についても紹介があった。彼女は「未来視」ということで、未来を視ることができるらしい。その能力を前提に「管理局」というものがつくられた、と。彼女が見る未来は自分の未来であり、咲良田という街の問題を予め知ることで、その対策をして問題を回避する。彼女はその為だけの存在だ。一体何があって、彼女は管理局に隔離されているのだろう?

 それはともかく、未来が視えたら一体私はどうするんだろうね。間違いなくそんな能力は求めないな私は。未来のことなど考えたくない。実際「魔女」さんは己の死期でさえも視えてしまうのだ。「魔女」さんの力で咲良田の諸々の問題は事前に回避できたとしても、自分が死ぬことはどうあがいたとしても避けられない運命だ。悲しい。

 

 「サクラダリセット」という作品は、全般的に抽象的で難しい話をする。だからわかりにくい。だけど妙な面白さがある。わからないなら理解したいと思う。負けず嫌いなのかもしれない、私。異能力も本人の意思に関連した能力が発現するみたいので、物語では触れられないかもしれないけれど、この人のこの異能力はどういう経緯で発現したのかな、って考えるのも楽しい。

 私?私ならどんな異能力が欲しいかな。

 ①月並みだけど、瞬間移動能力

 ②外界と完全隔離するATフィールド的なものを発動できる能力

 ③写真や物語、映像の中を自由に行き来できる能力

でしょうかねー。

深夜のつぶやき「他人に興味がない自分について」

 私が深夜に起きているということは、大体何かイベントがあった日と考えていい。今日は金曜日だし(日付は変わったので、これを書いているのは土曜日だ)。

 

 気分が超落ち込むこともあることにはあるけれど、概ね精神状態は良好。なんとなく生きている日々だ。「なんとなく生きる」ということを受け入れられるようになったのが、なんとなく良い効果を発揮しているのではないかな、と思っている。

 

 靴が足に合わな過ぎて、帰りはずきずき痛む足を引きずりながら私は帰り道を歩く。どうにか痛みを紛らわせようと、何か考えることにした。直近で、今日あったことを振り返ってみた。

 私はだいぶ冷たい人間ではないか、とふと思った。「冷たい」というのが適切でないならば、「他人に興味がない人間」と言った方が良いかもしれない。他人がどうだろうがどうでもいいと本当に思ってしまうのだ。身近な例だと、私は雑談が苦痛で仕方がない。どうでもいい話をしたくないからだ。相手が投げかけたことが私にとってはどうでもいいことばかりで、どういう反応をすればいいかわからなくなるからだ。逆に私は何も話したいことがなくて、自分から話題を切りだせない。どうしてあんなに人は雑談をするのか、たまーに理解できないときがある。なんでみんな喋っているんだ?

 こういうのは良いところもあって、例えばあまり嫌いな人ができない。好きだ嫌いだと言えるのはそれぐらい興味が湧くという意味でもあって、そういう人はなかなかいない。評判的に悪い方が目立っている人も、まあそんなものかなと思って普通に対応できるのは、良いところかもしれない。

 自分の心地よさをまずは考えるので、自分の気分を害する人は意図的に脳内からシャットアウトします。ということで、今日のイベントで会った人は誰一人として名前をおぼえられませんでした。申し訳ない。嘘。別に申し訳ないと思ってないでしょう?大抵の人のことを、私はきっと忘れてしまうんだ。悲しいことにね。