ベランダの実験室

思考の記録です。

20171016 問題ありの私

私には問題がある。

例えば、私はよく泣く。悲しくて泣くのではない。悲しくて悔しくて泣くときもあるけれど、大概は整理しきれない感情が押し寄せて、思わず泣いてしまう。突然泣くからきっと周囲には引かれてしまうだろう。そう思うから、私は人前で泣くのが嫌いだ。隠れて泣きたい。

例えば、私は見栄っ張りだ。つい自分を偽ろうとするしプライド高いなぁ…私、と思う。そのプライドの高さがバレバレだろうと思うとそれも嫌である。周囲に助けを求めることも苦手だ。

例えば、私は頭が悪い。効率が悪い動きしかしてないし、私の中の色々なものが邪魔しているような気がする。どうして私はうまく生きることができないのだろうと考えてしまう。どうして、うまくいかないのだろう。

例えば、以上のような考えを想像巧みに頭の中で広げてしまう。妄想の歯止めがかからない。落ち込む。


そんなことで、まあ、私という人間は色々と足りない。色々と問題がある。


数年前までひたすら自分の中で自分を痛めつける口実であったこれらの問題は、しかし、痛めつけたところで消え去るわけではないことを知った。

それからは、うまくいかなくても、うまくやれなくても、別にいいのだと思うようになった。とりあえず自分が真面目に物事に取り組んでいるということに気づいたからだ。自分で言うのもなんなのだけど。


今の私はやりたいようにやってきた結果である。望まぬことがあったかもしれないが、望まぬという事含めて私のやりたいことだった。それはわかっていたから、あまり現状に憤りは感じない。


別に、うまくいかなくたって生きていっていいのだ。悲しまなくたって、いいと思う。

20171011 隔日が好きだ

私は隔日が好きである。つまり「一日おき」が好きである。何事も一日おきで考えると、ものすごく時間が過ぎるのが早くなる。ONとOFFが明快で、すごく良い。

 

例えば、今、このブログもなんとなく隔日で更新している。毎日というのはなかなかしんどいが、2分の1になると気が楽になる。

読書の記録も隔日で書いている。

生きる姿勢も隔日である。今日頑張ったなと思ったら、明日はそれほどでなくてもいいし、今日頑張れなかったら明日頑張ればいい。

 

隔日が、好きである。隔日を律儀に遂行すると、曜日に縛られないのもいい。月、水、金、日、火、木、土、月、水、、、、ね。月曜日と水曜日と金曜日と、って毎週毎週固定されない。1週間おきになる。だから、どの曜日もまんべんなく好きになる。

 

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20171009 こんなに美しいものがあるのだから、世界はまだ大丈夫

と思って生きている。

具体的に言うと、私は小説や映画や音楽やアニメや景色が好きな人間で、実際に生きている人間よりそちらの方がよっぽど綺麗だな、おかしいな、興味深いなと思っているのだけれど、こんなに面白くて楽しくて考えさせてくれるものがこの世界にあるのだから、まあ、まだまだ世界は大丈夫だろう、私は死ねないな、と思って生きている。

それがあるから、私は大丈夫。

 

私は彼女ほどの闇も、世界に失望することもなく、どちらかというとわがままでこんなことを言っているけれど、彼女がこう言ってもいいんだ、ってことを言ってくれたのでそれを引用しよう。

 

私は自殺を考えたことがあります。それも何回もです。私は全部を投げ出したくなりました。死んでも、惜しいことは何もないって考えた後で、だけど、来月チヨダ先生の新しい本が読めるかもしれないんだなぁと思うと、簡単に自殺の決心が壊れました。

辻村深月スロウハイツの神様』より)

 

そう、そんなことが生きる理由になる。生きる理由にしていいんだ、と思ってからは、私は本気で時々こんなことを言う。「まだこんなに美しいものがあるんだから、生きていける。」って。

 

それより、現実の自分が生きる世界を愛せるようになった方がいいのかもしれない。嫌いなんだ。怖いんだ。そんなこと言ってないで、どうにか世界を好きになれるよう自分を変えてみなよ。でも、死んだら元も子もないし、本当に悲しくなる夜もあったから私は自分の好きなものやことについて考えることで悲しい夜を見送ったのだ。

 

難しいね。本当は直接喋って、誰かとこういう話が共有できたらいいのだけど。どうにも下手でそれができない。

 

現実をどうにか生きるために、私は空想に浸ることを覚えた。そして今度はその空想の源となる現実という存在に興味を持つようになった。というか、空想が生まれるためには現実が必要だから現実にも意味はあるのか、という本末転倒のような考え方になっている。そういうアプローチの仕方もアリなのかしら。

 

世界には綺麗なものがあるってことはわかるから、どうにか生きている。私は。

 

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20171005 想像の向こう

自分が見てきた風景や感じた感情を、その時その場でつなぎ留めたいと思っている。

誰かと共有したいとかそういうことではなく、「自分は確かに生きている」という証拠として残しておきたい。具体的に言うと、写真なりメモのようなものなり残していたい。ブログなんかをやっているのも、そういう気持ちがあるからだ。

 

私は閉じた世界に生きている。自己完結しているね、と指摘されることもある。自分の意見をしっかり持っているね、とも言われたりする。ポジティブとネガティブ、両方の意味で私の「閉じている」という特性は評価される。

「閉じている」から、毎日は実に平穏だ。何もなく、淡々と過ぎ去っていく。そういう人生を送りたいと願ってもいるし、そういう毎日つまらないなと思う自分もいる。

そんな「閉じられた」日々を送りながらも、時々想像の向こうから何かがやってくることがある。嫌々足を踏みだした場所が、案外刺激的な場所だったとか。

今日はそういう日だった。

 

 

想像の向こうがある。それは忘れないでおこう。自分で生み出した想像は「絶対」ではない。想像がまるっきり正しい、なんてことはないのだ。自分が生み出したものや自分の認識は、正しくないことがほとんどなのではないか?この世に絶対的に正しいことなんてあるのだろうか。私は自分の中に引きこもって考え込んでしまうタイプだから、想像が暴走することが多々あり、ヤバイ状況になることもちらほら。

 

自分なんていなければいい。自分に執着しないで生きていけたら、どんなに自由なのだろう。

 

なんと世界は曖昧なのだろうか。

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amazarashiのキーホルダーを持ったあの人は、いい人に違いない

amazarashiのキーホルダーを持ったあの人は、いい人に違いない

 

電車に乗っていて、人が色々な方向からやってきてはすれ違う構内を抜け、人が行く先まっしぐらに進む様はまるで弾丸のようね、と思いながら少し消耗し、別路線へ乗換を試みる。

ふと前を歩く人に気がつく。小柄なその姿から女性であると推測し、彼女が肩から下げるキーホルダーに目をとめた見覚えのある黒字の三角形が描かれている銀のプレート。amazarashiのグッズだ。

前を歩くこの女性はきっといい人だろうな、と思った。

いやいやそんなのわからんでしょう?と思うのだけど、amazarashiを好きな人に限って悪い人はいない、と私は何故か思ってしまうのだ。

 

まだそれほどamazarashiの音楽を聴いているわけではない。ライブに行ったことはあるけれど、まだまだあのグループについて知っていることは少ない。ただ、曲をいくつか聴いていて思うのは、こんなぐちゃぐちゃとした感情をきちんと認めて曲にして大声で歌っている人がいるという歓びと、しかし、他に誰とこの感情を共有できるのだろうかという失望に似た感情である。私には、まだamazarashiと出会ったときの興奮と歓びを共有できる身近な他者がいない。

 

amazarashiが好きな人は、きっと生きることに一生懸命なのだろう。愚直に考え続け、答えの出ない問いを幾度となく自分に突きつけたであろう。もしかしたら生きることが嫌になったことがあったかもしれない。じゃないと、あの音楽は聴かないと思う。なんとなく。もちろんどんな人でもamazarashiを好きでいい。そう、これは私の勝手な想像なのだから。想像というか、願望かな。

amazarashiを好きな人は、生きることが一生懸命な人なのだ、と思いたい。

 

世の中に悪い人はいないと思う。いるのは自分と気が合う人か、合わない人かだ。物事を見るまなざしの深さがおんなじ人と一緒にいると気が楽だ。もしくは、見る深度が異なっていてもそれを尊重し合えれば、良い関係と言えるかもしれない。相手の考えに興味を持ち、尊ぶことができれば。気が合わない人とはそれができない。

 

amazarashiを好きな人は、いい人に違いない。

正確に言えば、amazarashiを好きな人は、私にとっていい人に違いない。

もっと言うと、amazarashiを好きな人と、お友達になってみたい。

 

なるほど。そうなのか。そういうことだったのか。

 

私の好きな曲を貼っておく。

www.youtube.com

やっぱりこの曲が好きなんだな。

あとは『ライフイズビューティフル』も好き。

 

日本語の曲を浴びるように聴きたい、そんな夜。

 

メッセージボトル

20170930 私たちはまだ友だちでいられるか

昔の知り合いに会うたびに、ただでさえ少ない人脈がばっさばっさ切れていくような感覚をおぼえる。別に喧嘩したとか気まずくなったとかではない。「切れた」ではなくどちらかというと「(自分が)切った」と言った方がいいと思う。私のせい。私が、悪い。いつもそう思っている。

 

かつて、私には一緒にいて楽しい人たちがいた。それぞれ性別も、趣味も、得意なものも、性格もバラバラで、でもどうにか笑って過ごしていた。笑って過ごせたのはみんなそれなりに大人だったからで、多分私が一番幼かったと思う。かくいう私も、集団の人間の絆を引きちぎるような野蛮な行為は行わないわけで、私たちは笑いあって過ごせていた。

と私は信じている。

 

普通に出会っていればまず友だちにならない人間たちが、ある期間は友だちだったと思う。でも今は、ちょっとわからない。友だちじゃないのかもしれない。

 

人の集まりで、もめ事の発端になる定番のパターンは、恋愛事ではないか。そんなに恋愛ってすごいパワーなのだろうか。私は他人にあまり興味を抱かないからか、いまいちピンとこない。が、結局私たちに起こっていることも「定番」なのだと思う。

 

久々に会った友だち」、友だちAといつの間にか付き合っていた。記憶によれば、彼女は友だちBと付き合っていたはずなのだけど。そして当時揉めに揉めまくっていたはずなのだけど。いつの間にか友だちBではなく友だちAと付き合っていた。おめでとう、幸せになれよ。

でも「2人が結婚するときは結婚式に呼んでね」とは言えなかった。なぜなら結婚式に行こうとは思わないからだ。だって、面倒だもの。それに、2人の関係がこのまま続くかもわからないし。こういうとき、私は立ちどまって考えてしまう。2人が続かない可能性の方を取り上げてしまう。これは一種の習性で、私が単にネガティブなだけ。結婚式に行かないなんて、「友だち」じゃないのかな。

 

さて、Bは除かれた(他にも参加していない友だちがいたので、正確に言うとBだけが除かれたわけではないのだけど)久々の再会の場で、私たちはBを話題にすることをどことなく避けていた気がする。少なくとも私は避けていた。Bのことは嫌いじゃないのに。みんなが不自然なほど取り上げないのだもの。つい正直に「Bはこの場において禁句なの?」って聞いてしまった。

 

ああ、私たちは少なくとも以前のような「友だち」ではいられないのだろうなぁ...と思った。悲しいことに。

不安定に均衡がとれていた私たちの間のパワーバランスは、周囲の目と、仲が悪いよりは仲が良い方が良いという損得勘定が働いて保たれていたものかもしれない。タイプが違うもの同士だしね。均衡を保ってくれる外的圧力がなくなったら、そりゃあ、他人になるわよね。

 

先日、Bから友だちLINEグループにメッセージがきた。

私たちの代の同窓会のお知らせだった。Bのメッセージに反応したのは、今のところ私だけ。私だって、こんなめんどくさい感情を言葉にすることなどできなくて、熊が「good!」しているスタンプ1つだけですよ。本当に、スタンプ機能って便利。コミュ障にとってスタンプは本当に神機能だと思う。だから、みんなせめてスタンプだけでも押せばいいのに。メッセージ上に表示される熊さんを早くどっかに追いやって、他の可愛いスタンプで埋めてほしい。

 

私は、まだ「友だち」だと思っているよ。だけど、私以外の人は私と友だちでいてくれるのだろうか。ふと考える。この問いは非常に恐ろしい問いである。答えは私の側にはない。答えが私の側にない問題は、考えないのが身のため、ということを四半世紀近く生きてきて知っている。答えがない問題は、考えるに値する問題と考えたら最悪病む問題と、色々あるから注意した方がいい。同じように取り扱い注意な問題の一例としては「自分ってなんだろう」とかかな。あれも怖い問題である。

 

とにかく、そんな答えのない問いに巻き込まれそうになって、でも答えはシンプルだということにすぐ気づく。

私はまだみんなと「友だち」でいたいと思っているよ。それだけなのだ。

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20170929 このところの話

環境が色々変わって色々と精神が落ち着かなかったのだが、結果的に3週間ぐらいで落ち着いた模様。とりあえず大丈夫そうである。あとは「飽き」との勝負であるが、当分は退屈しないと思われるので生きていける。そして、自分の心身の調子を崩さないことを第一に考える。私は仕事をするために生きているのではない。生きるために仕事をしているのである。生きる>仕事、なのであって、この関係性がまったくの逆になり、しかも楽しくないのなら、逃げた方がいいと思っている。

このところまったくといっていいほどブログを更新していなかったので、今後は少しずつ調子を取り戻していきたい。

 

この1週間、まあ、実際は色々あってダメージもくらったわけだけど、比較的穏やかに過ごせたのは、

  • 移動中に本を楽しく読んでいたこ
  • ノートに日記と称して鬱憤やら面白いことやら気になることやらを書き留めていたこ
  • 食べ過ぎなかったこ
  • ちゃんと寝たこ

があると思う。飲み会がない、というのも大事。

大体私の生活はこれらで構成されている。

 

ノートに色々と書くのは良い。書きたくないことは書かなくていい、というのが肝要である。例えば気に入らない人について、確かにその人のことが私は気に入らないのだけれど、それを言葉にしてしまうと「絶対的な」感じがして嫌になる。というか言葉にもしたくない。意識上にもあげたくないくらい気に入らないということかも。そういうときは無理に書かなくていい。書きたいことを書けばいい。例えば、昨日は、久々にコンビニ弁当を食べたのだけどから揚げ弁当がヘビーすぎて、ああそういう年齢になったということなのかしら、ということを書いた。にしてもから揚げの味が濃くて本当にしんどかった。美味しいのだろうけれど、毎日食べていたら体調悪くなるなぁ。。。なんて。久々に食べるぐらいが良い。

 

本もがつがつ読んだ。多分今年読んだ本は100冊を超えたであろう。年200冊ぐらいまで読めるようになりたいけど、それ以上に読書の記録を残したいと思っている。その辺もなんとかしたい。

 

金曜日の夜になると思いだす。

土曜日を拡張したい。森見登美彦さんの小説『聖なる怠け者の冒険』に出てくる登場人物たちがこんなことを言っていた気がする。充実した土曜日。休日を存分に楽しむ。土曜日は私も好きだ。ちなみに、月曜日と水曜日と木曜日の夜も好きだ。休日を拡張したい。

でも、明日やることは未定。

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