ベランダの実験室

思考の記録です。

実感は春巻の味

酷い買い物をした。

春巻1本とナナチキ1つと、シーチキン味のおにぎりと申し訳程度の野菜生活(紫色のやつ)のパックを買った。酷い買い物だと思った。本当はカフェオレとかペットボトルのお茶を買いたかったのだけれど、プラスチックな物は買いたくない気分だった。それを言うなら野菜生活のストローもコンビニの白い袋もプラプラで、私は今日もごみを出していると思った。

とにかく暑い夜で、やや日焼けして色が茶色になっている私の腕に生ぬるい空気がまとわりついてくる。服がべとべとする。のどが渇く。結局、コンビニで我慢した甲斐もなく私は自動販売機の前に立ち100円のやさしい麦茶(600ml)を買ってしまう。安い。やさしい麦茶はやさしそうに色が薄い麦茶だと思った。

ペットボトルを家に持ち帰りたくないと思った。そうだ、次の自販機にたどり着く前に飲み干してしまえ。そしてごみ箱に捨てるのだ。突如始まった600ml飲料一気飲み選手権は、持ち前の肺活量と胃袋の丈夫さでもって私の完勝であった。普段会社には500mlの水筒を持っていくが、それではまるで足らず結局ペットボトルのごみを生み出している人間だ。1.5リットルぐらいの水筒ではないと私の渇きは満たされない。600mlの一気飲みなど造作もないこと。

私が歩くと世界に音がある。私が止まると、世界から音が消える。ふとそのことに気が付いて、私はまた歩き始める。

 

酷い買い物をしたと思った。そう思ったのは私の心が荒れているからだ。

何があったわけでもない。大概幸せな感情は文章にするまでもなく、自分にとって悲しい出来事ほど文章にしやすい。こうして私のネガティブな文章が出来上がっていく。

何があったわけでもない。強いて言うなら疲れただけのこと。誰に、何を、言われたわけでもなく。ただ落ち込む夜がそこにはある。

 

春巻は味が濃かった。しょっぱくて、多分これはビールが合う味なのだろうと思った。シーチキンは新しくなったようで、さらにおいしくなった。ナナチキは揚げ鶏と何が違うのかわからなかった。野菜生活を飲んでいたらいつのまにか白いシャツにポリフェノールの染みがついていた。私はそのまま机から離れることなくこの文章を書くことにした。

 

明日もやってくる。明日が突然奪われた人もいる。私は生きていて、もうこの世にはいない人がいる。現実は遠く、どうすれば実感することができるのかを考える。私の今の実感は、春巻と、シーチキンと、鶏肉ぐらいだ。

明日もやってくる。春巻は食べないつもりだから、今日と明日は確実に違う日になる。そうやって、私はまた時を重ねていく。

 

あなたには書いて欲しい

誰かのブログを読むのが好きだ。アフィリエイトは論外として、その人の見ている風景を淡々と書いているような文章が特に好きだ。もちろん言葉の選び方や温度は気になるものの、押しつけが強くなく自分の言いたいことを言ってありきたりじゃなくてひっそりと続いていく文章が好きだ。

ということで、もっと文章を書いて欲しい。私、読むから。

私は誰かともわからない誰かに語りかける。書くことをやめないで欲しい、と。私はあなたの文章が好きなのだ。

冬の空

写真を整理していたら、黒と白と青の写真が出てきた。

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これは冬に撮影した空の写真。撮影したときの私の心は、もっと黒々としていてとにかく憂鬱だった。憂鬱になる時間だけはたっぷりあったから、今よりマシかもしれない。憂鬱になったところで何もなかったけれど。

書くことには尽きないけれど、撮る写真には欠く。何を撮ればいいのかわからない。けれど、後で見返すと絶対後悔しない。それが写真という存在。撮りたいときに撮るのが多分正解。

 

私はあとどれくらい何かについて考えることができるのだろう。

どれくらいのものをその目に焼き付けることができるのだろう。

今日はそのことについて考えていた。そして、無性に焦った。今やっていることに不満はない。不満はないけれど、同時に何もしたいことがない。

いや、やりたいことはある。文章と写真と絵をかけるようにすること。一日をくだらなくても何もなくてもいいからたっぷり生きること。


気ままにやっていこう。

そして疲れている。早めに寝ましょう。

長靴という無敵スター

嫌いなもの。たくさんある。

そのうちの1つ。靴の中が浸水すること。

これは、許せない。

 

私の癖。たくさんある。

そのうちの1つ。天気予報を見ない。

これは…特に理由はない。朝の天気と夜の天気は変わりうる、ということがもしかしたらよくわかってないのかもしれない。朝の天気は夜の天気。7時30分に雨が降っていないなら、21時30分にも雨は降らない。それだけ、自然から離れた生き方をしているってことだと思う。

天気予報を見ないので、よく雨に濡れる。折り畳み傘も持たないので、一人濡れて帰ることがよくある。朝は誰も傘を持っていないのに帰りはちゃっかり傘を差して帰っている人々を見ると、騙された気分になる。中学校の修学旅行の班決めの。水面下繰り広げられる駆け引きに取り残されているような感覚。ええ。私は昔から席替えと班決めが大嫌いです。

雨に濡れると、ひどいと靴が浸水する。ぐじゅぐじゅする。不快。感覚が嫌い。服が濡れるのは全然許せる。靴さえ浸水しなければ、濡れて帰って構わない。ぐじゅぐじゅさえしなければ。

 

ということで、長靴を借りた。最近はお洒落に「レインブーツ」と呼ぶほうがしっくりくる。

長靴を履いた私は無敵である。バシャバシャと水たまりに足を踏み入れる。むしろ自分から率先して水たまりの方へフラフラと歩く。強い。バシャバシャ水を蹴るだけでお金がもらえる仕事無いかなぁ…。それなら楽しいだろうに。いや、働くことは嫌いじゃないけれど。

 

「朝起きる→朝ごはん美味しい→電車に乗る→本を読む→水たまりでバシャバシャする→楽しい→帰る→夕ご飯美味しい→寝る」という密度な一日を過ごしてみたい。情報量が少なく世界は狭い。大したことがないけれど綺麗な一日を過ごしたい。

「中華料理屋」

美味しい食べ物を食べたいと思うので、食べ物レビューのサイトを開いてみる。星4と星3.5の違いが私にはよくわからない。私は美味しいものを食べたいだけなのに、星の数は美味しさの数値なのだろうか。私の「美味しい」には、もしかしたら「行列に並ばずすぐに食べることができる」「客層がおとなしめで緊張せず食べることができる」など味覚以外の要素も入っているのではないか。でも、目の前の端末で表示しているサイトにはたくさんの人の「美味しい」がごちゃごちゃ混ざり合っていて、よくわからないものになっているのではないか。

ここまで考えて、私は端末をポケットにしまう。便利な世の中になったけれど、そこから爪弾きにされた感覚。仕方ない。自分の足でお昼ご飯の場所を探そう。

こういうやりとりを何回もして、結局今はお昼ご飯を外出中に食べることになった時のルールみたいなものを作った。

「よくわからない中華料理屋に入ること」

これである。実際中華料理は香辛料を使っていたりすることもあるので、自分の胃に相談なのだけど。以前麻婆豆腐を食べたら、山椒がものすごく効いていて、午後は胃に不快感を感じながら過ごすことになってしまった。

「よくわからない中華料理屋」というのは、例えば看板がちょっと古くて胡散臭かったり、ビルの半地下でひっそりとやっていたり、あんまりお客さんが入ってなかったり。「どうしてこの店営業続けられているのだろうか」という独特の雰囲気を醸し出しているお店のことだ。

大体中華系の方々が働いていて、お店上のやりとりも中国語っぽいもので、ちょっと不愛想で、で、定食はどっさりと小皿が付いてくる。デザートの杏仁豆腐は高確率でついてくる。

 

何故そういうお店に行くのかというと、言葉を理解できないということが自分にとっては良い作用をすることもある、ということだ。日本語は意味が分かる。音に焦点があってしまうとなかなかそこから逃れられないので、聞きたくない内容の会話こそ、聞き耳を立ててしまう。せっかくのお昼ご飯に、そんなことしたくないではありませんか。でも、そもそも言っている意味が分からないのであれば理解しようがなく、私は目の前の定食に集中できるのです。

食事中はイヤフォンをしない。これは自分にとって自然なことで破ることができないものなので、仕方なくこういう措置に落ち着いた。

日本の接客業の良い部分、生真面目さから逃れることができるところもいい。中華料理屋の人はちょっとだけ適当だから。思いつめた表情でお店に入っても、ご飯を食べてば、「ま~~~死ぬわけじゃないし、ほどほどに力抜いていっか」と思える。良い。

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これ、豆腐のあんかけ定食なのですが、ご飯の上にあんかけがかかっているのですね、だけど、左下にちゃっかりご飯(一人前)がついている。これ、定食屋の効率を追求したサービスの結果で、メインを除いたセットを既に何膳も用意しておいて、メインが出来上がったら中央に配置して配膳するというシステムがもたらしたもの。私のあんかけご飯の「ご飯」が見事あんかけに隠れてしまった故に、茶わん一杯のご飯もついてきた、ってところでしょうか。そういうところ、大好き。

※なお、店員さんに言うのも面倒なのですべて平らげた。超後悔した。

「いつかあの街に行きたいと思うのは何故ですか」

映画「千と千尋の神隠し」で私が一番好きなセリフは、海が月明かりに照らされ黒と青の色が美しく幻想的な夜のシーンのセリフだ。

おれいつかあの街に行くんだ。こんなとこ絶対にやめてやる。

リンがばっさりと言い放った言葉。初めてこれを聞いたとき、私はカルチャーショックを受けた。びっくりした。この一言は当時の私にとって大きな衝撃をもたらした。以来、このセリフやこのシーンは覚えている。

 

千と千尋の神隠し」のリンという登場人物は非常に魅力的だと思う。最初こそ千に対してあたりが強かったけれど、初対面の気まずさと困惑が和らげば、リンの天性の面倒見の良さが途端に現れる。「姉御肌」というのはリンにぴったりな言葉だ。要領もよく機転もきく。湯屋で働く人々は優秀そうだなと思うのだけれど、リンも然り。だから、私は驚いたのだ。

 

リンの言葉で知ったのは「人間とは北極の海にそびえたつ氷山のようなものだ」ということだ。白く立派にででーんと海に鎮座する氷山は、全体の一部に過ぎない。冷たい海に潜れば、見えない氷の塊が目の前に現れるだろう。

人間も同じように見えない部分がある。

面倒見がよくてきぱきしていて、ばっさりと喋る。困った人は放っておかないし突然のアクシデントにも柔軟に対応する。オクサレ様事件でも千をサポートして、で、「おれいつかあの街にいくんだ」である。はー。

うまく言えないけれど。リンの「おれいつか」発言にかなり衝撃を受けている自分がいて、それは「出し抜かれた!!!」という感覚に近い。そう自覚して再びショックを受ける。別に例えると、いつのまにか修学旅行の班決めが私以外の人間だけで決まっているような感じ。あーこれはショックだ。

「みんな」、考えるところで考えているんだ。私の知らないところで。私を置いてけぼりにして。そういう気持ち。

 

 

私は「ああ、あなたの言っていることよくわかるよ」という経験に乏しい。うまく自分の内面を人に伝えられないし、共感された経験が少ない。同時に、私も本当に誰かの考えに共感することは少ないのかもしれない。

私が見ているあなたは、あなたという氷山の一角に過ぎない。この事実を目の当たりにしたとき、それでも自分は未知なる氷山に果敢に切り込みたいと意気込むのではなく、では登るのをやめよう、と考える人間だった。 

 

私はリンという人物像に好意的な印象を抱いていたし、一抹の寂しさはあるのだけれど、どうしてあの街に行きたいと思うのか、知りたいなと思っている。

「どこに行くのですか」

「週明け2日間休むからよろしく」

誰かから言われたとして。

「へーどこか行くんですか?」

「お土産よろしくお願いします」と言える人を、ちょっとだけ尊敬する。

 

私は滅多に自分のことについて言及されないものだから、誰かから「治野さんって、○○ですよねー」という意見をいただくと、それはどんなものでも貴重なものと捉え、注意深く聞くようにしている。

これ、自分でも危ないなと思っていて、それは発した言葉をそれほど重要なものと捉えていないで放り投げる人が、世の中には存在するからで(私もそのうちの一人だろう、きっと)大切に大切に、お守りのように、あるいは、クッキーの缶に丁寧に保存するように、自分の中でしまいこんでいると実はとんでもない呪いの言葉だったりするのである。

というわけで、危ないけれど丁寧にずーっとしまってある言葉たちの中に「治野って他人のこと興味ないでしょ」というものがある。ぐさり。呪いの言葉。

そうなのかな、と思う。そうなのかもしれない、と思う。そうありたいのかもしれないな、と思う。実際のところは、知らない。

「私って他人に興味がない」かもしれないな、と思うのは冒頭であげたような会話の時。

「どこに行くのですか」なんて絶対聞けない。そもそも連続して休みを取るからって旅行に行くとは限らないし、私だったら「どこに行くの?」「何をするの?」と聞かれたら「うっさいボケ!!!」と思ってしまうかもしれない。本当は、相手用に答えを考えるのが面倒なだけなのだ。

私は、他人に切り込めない。知ろうと思わないし、知ってどうなるのかと思うし、知っていいのだろうかと思うのだ。

 

「どこに行くのですか」と聞けるようになったほうがいいのか、あるいは。