ベランダの実験室

思考の記録です。

20171121 夜空の色は黒

ふと帰り道。空を見上げてみた。空を見上げるなんで行為、いつぶりだろうかとしみじみとした。当たり前なのだけど、夜の空の色は暗い色。私の住むまちは明かりがついていて、だから星があまり見えない。本当の夜空の色を私は知らないのかもなーと思いながら、空を眺めていて、はへへと笑みがこぼれてきた。ヤバい。明らかに変な人だ。そうかー、夜空って黒だよな。当たり前だよな。夜だし。そんなことにいちいち感動しているくらい、今の私は疲れているのか。今日は比較的元気な方で、だからこれも書けているのだけど。こういうことが、何かあればその日は良い一日だったと思うのだ。積み重ねていきたい。

20171119 今考えていること

今考えていることをつらつらと書く。

生きている。定期的に「私の人生一体何なの」と悲しくなる瞬間がやってくるのだけど今日は大丈夫。大丈夫な精神状態である今、その問いに答えるとすれば「私の人生は何もないし何もなくていいし何かを求めてもいいけれど何もなくたっていいんだ」と答える。人生に意味を求めすぎだし、そう、私たちは大切で大きなものを求めすぎのような気がする。生きているだけで儲けもの。それ以上に何があるの。

人間の事を考えたくないなと思う。そういう人とおしゃべりしてみたい。他人の事なんてどうでもいいから、優しくしている。優しくしていればとりあえず損はなさそうで。でも、優しくない人も世の中にはいる。その人は、他者に優しくないことでどれだけの不利益を被っているのかと思う。

最近になって、承認欲求も以前よりは落ち着いてきたのか、理解に対して諦めの念を抱くようになった。以前は理解されたくて仕方がなかった。どうして周りの人は私のことわかってくれないのだろうと思いながら生きてきた。日々フルパワーで喋ることができず、「なんでも話せる親友とか嘘だろ」と思っていた。どうしてみんな楽しそうにしているかわからなかったし、他者としてしんどいのはわかるけど、笑い合えるなんてどうしてだろうと思っていた。この問題についてはまだよくわからない。私の問題であることはわかる。でもどうしていいかわからない。何をすれば、他者と心の底から笑い合えるのか、それは幻想なのか、私の何が悪いのか。そういうことを考えるのが以前より減ったということだ。労働と金で構築される関係に、「理解」とかは不要なのだ。共感もいらない。で、寂しい。寂しいのは、寂しい。

こういうことも人生だと思う。私は生きていることそのものを観察し記述することでどうにか人生を乗り切ろうと思うことにしたから、うまくいかないことも含めて「書くための材料」だ。儲けもの。

 

今考えていること。頑張ることについて。

 

今まで誰かから「頑張れ」なんて言われたことがなくて、でも何かと頑張って生きてきた。「頑張らないとあなたには生きる価値がない」そんなこと言われたことなんてなかった。

 

だけど、なんか頑張っちゃったんだよな。頑張る方向がおかしかった。

他人を常に気にしていたし、他人の機嫌を損ねないように生きてきたし、自分が多少無理をしたり我慢をすることでうまくいくのであれば、自分の無理も我慢も厭わなかった。

結果、中身が何もない人間になってしまったからね。

 

こうあるべき、とか

こうしなさい、とか

これが正しいの、とか

 

そういうのがなんだか嫌になってしまった。

他人に縛られていると、しんどい。

他人の価値が自分の価値とイコールになると、心がばらけそうになるときがある。

 

強く生きたいなー。ほんとうに。

 

それが今、私が考えていること。

20171113 穏やかに

久々に、心穏やかな一日を過ごせたような気がする。

色々なことを考える。例えば、このまま私はひとりなのだろうか、ということを考える。深い深い闇。別にひとりじゃないだろうに、私はいつもひとりを恐れる。それに、人間というのは結局はひとりだろうに。

 

いつかは知らないが、「テンション高く生きるの疲れたなぁ」と思ったことがあった気がする。

気分の浮き沈みが激しく、楽しくなろうと思えればどこまでも楽しい人間で、その逆も然り。感情の振れ幅が大きいと結構しんどいのである。疲れる。が、今も気分の浮き沈みは激しい。

 

あとは、人間を理解するの疲れたなぁと思った。疲れるほど他人に関心を抱いたことなどないのに、だからこそ、だろうか。街中を歩くと、色々な人がいる。ちょっと気を抜くと目の前の人はどういう人だろうかとか、どんな人生を歩んできたのだろうかとか、実はそういうことを考えてしまう。これは「関心」じゃないのよね。うん?関心なのかな。でも「理解」じゃない。どちらかというと「情報収集」。そう、自分が生きる上での情報収集の一環。私は他人そのものに関心があるわけではない。

 

私は、本気じゃないことを言う癖がある。その瞬間は本気だったけれど、3秒後には嘘になる言葉をよく吐いてしまう。嘘じゃないけれど、結果的に嘘になる。

そのような断りをいれて、ある告白をしよう。

私が実は憧れている生活は、自然のなかの小屋で一人質素に暮らすことだったりする。本と、筆記用具と、斧と(薪割り用)は最低限欲しいな。あとは、文字を打ち込むことができれば機能はどうでもいいコンピュータ。体を適度に動かしながら、何かを観察しながら、あるいは、作りながら、細々と生きてみたかったりする。が、そこまで思いきれないから悲しいものだ。ほら、嘘になってしまった。

 

ただ、小屋暮らしはできないかもしれないが、そういう生き方をイメージしながら今を生きることはできる。穏やかに、生きたいわぁ…。

 

他の人はこんな気疲れしているのかしら、と思ってしまうくらい、人と人との間で気疲れをする。他の人はもっともっと疲れているのだろうか?他の人はどうやって生きているのだろう。不思議だ。

 

久々に、こんなことを考えられて、今日はやっぱりいい日だった。

20171106 秘匿

その袋の中には、バラバラの死体が入ってることを、私は知っていた。

自分で殺したわけでも無いし誰の死体かも知らないし、なんならなんで自分がゴミ袋を運んでいるのかも知らないけれど、袋の中身がバラバラの死体であることを私は体の深いところで知っていた。

あ、夢の話です。今朝見た夢の話。


近頃話題になった凄惨な事件、9人の遺体が見つかったあの事件の影響なのか。そんなにショックを受けたつもりは無かったのだけど。あるいは昨日観た、映画「ミュージアム」の影響か。こちらの方があり得る。内容がかなり猟奇的だったから。縦割り死体とかなかなか怖かった。


夢の中で、私は森の中を歩いている。湿原と言ってもいいかもしれない。適度に木々があって、水の気配がするところ。川では無い。沼や湖、ちょっとした水たまりの気配。流れる水は清らかな一方、昨日の夢では流れもなく水は留まり淀んでいるような感じだった。

私はバラバラ死体入りの袋を持って歩く。どこかに袋を隠さなければいけないことを知っている。また、第三者、神の視点で夢を見ている私は、ふらふらどこへ行くかもわからず歩いている自分が追われていることを知っている。追跡者がいるのだ。

そうは知らず、歩く私はやっと袋を隠せる場所を見つけたようだ。長くしなやかに生える雑草、それはさらさらと流れるような女の髪に似ていた、をかき分け、私は袋を隠す。


程なくして、何があったかは知らないが、私が隠した袋は追跡者にバレてしまう。自分の行為が公になったことで私は大きく2つの感情でいっぱいになる。1つは、私の行動がバレたことで私の家族などにとんでもなく迷惑がかかるだろうという恐怖。悪いことをしてしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。もう家族に顔なんて見せられない。申し訳なさに悲しくなって、泣いた。もう1つは、安堵だ。ああ。もうこのとんでもない秘密を抱えたまま生きなくていいんだ。私は、もう自由なんだ。こんなことしてしまったんだ。もう私には何も無いんだ。妙な開放感に痺れた。私は犯罪者なんだから、もうどうなったっていいんだ。


異なる2つの感情に襲われ、じんじんとしていたら夢が覚めた。


起きた後も、なんとなく身体には激情の余韻が残っていた。

20171105 日曜18時の呟き

今年の9月ぐらいから、私は日曜の18時が好きではなくなった。

俗にいう「サザエさん症候群」というやつで、以前は「ふふん、そんなものになるかよ」と思っていたけれど、どうやら私も罹患したみたいだ。とてもつらい。

その理由は明白で、今の環境がつらいのだ。今までの私は居づらい環境をどうにかこうにか逃げたりアレンジしたりガス抜きをしたりして生き抜いてきたのだが、今回の環境はなかなか慣れない。2カ月経つというのに。で、また明日から働くのか~~~と思うと、どんよりするというわけである。

 

そんな精神状態は嫌なので、色々と考えている。

 

1つめ、そもそも環境を変える努力をする。自分が至らないところもあるので、そこを地道に直していく。私の届く範囲外のことでいちゃもんをつけられたり、冷たくされたら、もうそういうものなのだと割り切る。帰り道に転んでしまえ。

2つめ、「平日」と「休日」と考えるから具合が悪くなるのかもしれない。「平日」も「休日」もない。あるのは「一日」。今日も起きて朝ごはん食べて、日中活動して夜は寝る。その繰り返し、と考え、日々生きていく。

 

あとは、普段の私はいつも混沌としているので、一日で一日を完結させたいな、整理をしたいなと考えている。混沌としているというのは脳内の様子で、一瞬一瞬パッと思いついては消えていく精神活動。あれもこれも考えては忘れることを繰り返し、学ぶべきことも忘れていることがある。それはダメだ。学ぶ人間でありたい。

 

そんなことを考えた、3連休最終日、日曜日の呟きである。

20171104 今日考えたこと

今日考えたこと。

 

人は余裕がなくなると不寛容になる。他人に対する配慮が無くなるということ。それは悪循環を生むということ。他人に配慮がない言葉に傷つき、毒が回り、今度は他者を攻撃する側に回るということ。それは、その連鎖は良くないよなぁと思う。伝えたい言葉を、適切な方法で発しないと逆効果になるということも考えた。どう考えても伝え方が悪いあまり印象が悪くなっている。それはとても損だ。

その人は、机をドンドンと叩きながら喋った。威圧的である。やめた方がいい。あとはお酒を飲んだ後の大事な話もやめた方がいい。余計なことまで喋ってしまうから。

 

人間というのは、とても興味深い生き物だな、と今日みたいなことがあると思う。

そういう私だって人間で。

他人の感情はわからない。他人がどういうルールで生きているかもわからない。何が地雷なのかもわからない。他人をゲームのキャラクターのように操作することはできない。それに染まってしまうと、リアルに生きる人がつくづく面倒に思えてしまって、末期だな私と思うものである。そういう自分の感情さえ思い通りにならない。

 

だから、どんな人間が目の前に現れたとしても大丈夫なように、私は強くなりたいと思うのだ。他人に屈服することなく、しかし誤りは潔く認められる人に。

 

ポジティブな感情はどうでもいいけれど、ネガティブな感情、例えば怒りや悲しみ、苦しみなどが全面に押し出された時、もしかしたら人間は面白いのかもしれない。ああ、この人生きているんだなと思えるというか。あ、感情あるんだ、みたいな。

私は怒られるのも泣かれるのも超超超苦手で、そういうものをいかに発生させないかに全力注いできた人間だから、免疫力が著しくない。が、面白いのかもしれない、と今日初めて思った。これはある種の防衛本能かもしれない。遠ざけて考えないと、私は人の怒りや悲しみ苦しみに耐えられないのだ。「観察対象」とすることで、私はいくつもの耐えきれない物事をやり過ごしてきたのかも。

 

 

別に今日に限った話ではないけれど、ああ、人間であることが面倒だな、とここ最近考えている。

死にたいでもない。

消えたいでもない。

あんな人間消えろでもない。

自分が人間としてこの先も社会的に生きていくのがとてもとても億劫に思えるということである。

 

例えば年齢とか。例えば結婚とか。例えば家族とか。例えば孤独とか。例えば労働とか。なんでこんなに面倒なことが目の前に山積みになっているんだい?何故私はそれを「面倒だ」と思うようになったのだい?どうすればこのモヤモヤとして気持ちは消えるの?

 

私が死なないのは、いくつか理由があるけれど、私が死んだ後の世界がどうなるのか見れそうにないことは大きな理由の1つだ。自分の死を以て、その人の反応を見てみたい。はははといつも笑顔でいる私の胸中にはこんな呪いの言葉があったのだと、私の死後気がついて、思いきり後悔すればいい、あるいは後悔しない人間だったのならそれはそれでせいせいする。その人に対する感情の何もかもを諦められる。でも、死んだら反応なんて見れないと思うので死なない。

 

 

生きるって面倒だ。本当に、面倒。

さて、私はどう生きるのか。結局はそこに行き着く。

 

とりあえず、言いたいことが生まれたときに相手に伝わるように、話し方は気をつけよう。今日の相手の言い分は、「こいつ頭くるなぁ~~~~~~」という感情しか想起させなかったので工夫した方がいいよと相手に言いたい。

20171101 

まったりしている。風呂上りはとろんと眠くなる。なかなか良い感覚。

お酒は飲まない。その代わり、キンキンに冷えた麦茶を飲むと、とってもとても美味しいので、労働のあとのビールの味はこんなものだろうと推測する。

自分が何に疲れているのかすらわからない。疲れていないかもしれないけれど、そのうち自分が壊れそうな予感がしている。こんなこと続けられるのかしら?と思いながら、続けている。まあ、まだいい方だと思うけれど。

対人のストレスは、結局ある程度生じるのだと思う。生きている限り。そして私という人間である限り。問題は、どの程度のストレスなのかとどういうストレスなのかということ。今回の場合はまた特殊な感じがしていて、だから対処しづらいのかもしれない。少なくとも今まで生きてきて、このようなタイプはなかった。正直に言うと、とてもやりづらい。

人間のことを考えるのが億劫だ。色々なものの裏を考えてしまうのはとても疲れる。気にしないと思っていても、気になってしまう。やりづらい(2回目)。

 

さて、私はどういう風に生きたいか。考える。

 

あとは、本を読む人間でよかった。今、心底本を読むことが楽しいのだ。世界がたくさんあることを知ることができる行為。本を読もう。世界を、自分が生きてる世界を相対化するのだ。